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 20世紀の形 而上学〉栄枯盛衰

On Rudolf Carnap's "Überwindung der Metaphysik durch logische Analyse der Sprache"

池田光穂

■前前哨戦はなかった:フッサールとフレーゲ

フッサールとフレーゲ / J.N.モハンティ著 ; 貫成人訳,東京 : 勁草書房 , 1991.

■前哨戦:マルチン・ハイデガー「形而上学とは何 か?」——フライブルグ教授就任講義(1929年7月)

ハイデガーは、形而上学を規定して「存在者を超えて 問うこと」した。その中心的テーマは「無への問い」だという(→「可能世界」論)。

「無は有と密接にかかわり、有の現象のうちに無は不 可欠である。より根源的には理性と信仰の基礎となるものである。知と信の問題である。ニヒリズムは最高価値すなわち神の否定である。無の考察者であるハイ デガーは、単なるニヒリズムの主張者であるとみなされることを拒否する」(浅野 2009:49)

ハイデガーの演説の末尾(英訳でサマリーと称されて いる)

Summary. We can relate to whatever-is only if we are held out into the no-thing. This going-beyond-things occurs in the very essence of human being. But such going-beyond is metaphysics itself. This entails that metaphysics belongs to the “nature of human being.” It is neither a specialization [122] within academic philosophy nor a field of fanciful ideas. Metaphysics is the most basic happening within human existence – in fact it is human existence itself. Because the truth of metaphysics dwells in this groundless ground, its closest neighbor is the ever-present possibility of profound error. Thus the rigor of science, as strong as it is, never equals the seriousness of metaphysics, and philosophy can never be measured by the standard of the scientific ideal. If we have really participated in this unfolding of the question of the no-thing, we have neither brought metaphysics to ourselves from the outside nor “transported” ourselves into it as if for the first time. We cannot transport ourselves into metaphysics because we are always already there insofar as we exist. Phaedrus, 279a9-b1: φύσει γάρ, ὦ φίλε, ἔνεστί τις φιλοσοφία τῇ τοῦ  νδρὸς διανοίᾳ. “Insofar as human beings exist, philosophizing is already somehow going on.” Philosophy (as we call it) simply means enacting the metaphysics in which philosophy comes to itself and to its explicit tasks.*30 Philosophy begins only when our own existence undertakes a personal commitment to the basic possibilities of human being as a whole. What matters most in this commitment is that we first open the space for things in their meaning-giving context; then liberate ourselves for the no-thing, i.e., free ourselves from the idols that each of us clings to and goes cringing to; and finally, as we are left hanging in the no-thing, that we let ourselves be swept back into that basic question of metaphysics, the question that the no-thing itself imposes on us:

Why are there meaningful things at all rather than the no-thing?

*30 This is meant in two senses: the “essence” of metaphysics, and its own history as formation[s] of being. Both are included under the later rubric of “getting over [metaphysics].” (1st ed. of Wegmarken, 1967.)

要約 私たちは、無の世界へと引き出されて初めて、有であるものすべてに関わることができる。物事を超えていくことは、人間の本質そのものである。しかし、このような超越は形而上学そのものである。このことは、形而上学が "人間の本質 "に属することを意味している。形 而上学は、学問的な哲学の中の専門分野[122]でもなければ、空想的なアイデアの分野でもない。形而上学は人間存在の中で最も基本的な出来事であり、事 実、それは人間存在そのものなのである。形而上学の真理はこの無根拠な大地に宿っているため、その最も近い隣人とは、常に存在する深遠な誤謬の可能性であ る。したがって、科学の厳密さは、それが強力であるとしても、形而上学の真剣さに匹敵することはなく、哲学は決して科学的理想の基準で測ることはできない。もし私たちがこの「無」の問題の展開に本当に参加したのであれば、私たちは形而上学を外から持ってきたのでもなければ、初めて形而上学に参加したかのように「移動」したのでもない。なぜなら、私たちが存在する限り、私たちはすでにそこにいるからである。 Phaedrus, 279a9-b1: φύσει γάρ, ὦ φίλε, ἔνεστί τις φιλοσοφία τῇ τοῦ  νδρὸς διανοίᾳ. 「人間が存在する限り、哲学することはすでに何らかの形で進行している」。哲学(と私たちが呼ぶもの)とは、哲学がそれ自体とその明確な課題に到達するための形而上学を実践することを意味する*30。哲学は、私たち自身の存在が、人間全体としての基本的な可能性に個人的にコミットするときにのみ始まる(→実存哲学者としてのハイデガー。 このコミットメントにおいて最も重要なことは、まず私たちが、意味を与える文脈における事物のための空間を開くことであり、次に、無きもののために自らを 解放すること、すなわち、私たち一人ひとりが執着し、身じろぎもせずに向かう偶像から自らを解放することであり、そして最後に、無きものの中にぶら下がっ たままになっている私たちが、形而上学の基本的な問い、すなわち、無きものそれ自体が私たちに課す問い、「なぜ、無きものではなく、意味のあるものがまっ たく存在するのか?

【まとめ】「人間は環境に繋縛されてそこに埋没して 生きる動物とはちがって,自ら存在という視点を設定して出会うものすべてを存在するものとして,つまり存在者として統一的にとらえることができる.存在と いう視野のうちにすべてのものが存在者として現われ出ていること,この事態こそがソクラテス以前のギリシア人にとっては驚くべきことであったとハイデガー はいう.しかし,ソクラテス,プラトン,アリストテレスは,存在者の統一を可能にしているのは〈何であるか〉と問うようになります.〈それは何であるか〉 と問う問い方そのものがギリシア的,つまり西洋的,結局は〈哲学的〉なのであり,そこで問われているのは,当のものが〈何であるか〉という本質存在という ことになります.〈本質存在〉が〈事実存在〉と区別されるだけでなく,〈本質存在〉が〈事実存在〉に対して優位に立ったのがソクラテス以降の形而上学の歴 史だというわけです.サルトルの「実存は本質に先立つ」というあまりに有名な命題も,ハイデガーによれば,「本質は実存に先立つ」というプラトン以来の命 題をひっくり返したものにすぎず,西洋の形而上学的命題にとどまったものだというのです.ハイデガーは,〈本質存在〉と〈事実存在〉に分岐した形而上学に よって〈始原の存在〉が蔽い隠され,忘却されているのではないかと考えます」https: //www.iwanami.co.jp/book/b255758.html

■ウィーン学団による『科学的世界把握』1929年 9月

「黄色本」といわれる『科学的世界把握』というマ ニュフェスト。「形而上学の誤りの根拠を論理学の上から明らかにすること」(野家 2004)を謳う。

■ 言語の論理分析を通した形而上学の排除;On Rudolf Carnap's "Überwindung der Metaphysik durch logische Analyse der Sprache"(1932年)

■参照文献:サイモン・クリッチリー『ヨーロッパ大 陸の哲学』岩波書店、2006年参照

■(野家によるクロニクル)

「このような形而上学をめぐる状況変化の兆しを、 『分析哲学』の編者たちは一九七〇年前後に見定めている。 すなわち「一九七〇年までに、論理的原子論、論理実証主義および日常言語哲学は、その盛りを過ぎていた。 その衰亡には、少なくとも三つの要因が寄与している」というわけである。 当の三要因とは、第一に提起された問いと答えが陳腐なものと考えられるに至ったこと、第二に可能世界意味論など最新の技法が古来の哲学的問題に新たな光を 投げかけたこと、そして第三に知識や知覚の因果説など、日常言語や科学のお蔭を蒙らない新たな哲学理論が発展したこと、にほかならない。 そして編者たちは、二〇世紀の最後の四半世紀に従来の支配的学派や中心的問題が消滅して哲学が「百花斉放」の状態になったことを挙げ、そうした百家争鳴の ただ中で「形而上学はストローソンとチザムによって再活性化された」と述べている」(野家 2004)

■クリプキの評価を忘れてはならないと、野家先生は 続ける……

「……形而上学の再活性化へのギアチェンジを行った のは、本人の意図は別にしてクリプキの『名指しと必然性』(初出一九七二年)であったと言うべきだろう。彼はのモデル理論(可能世界意味論)を武 器に、「個体の同一性」や「可能性と必然性」など古来の形而上学的問題にまったく新たな角度からメスを入れて見せたからである。 驚くべきことに、最新の論理分析を駆使したその議論の帰結は、アリストテレス以来の伝統的な「本質主義的形而上学」の復権であった。 クリプキ以後、分析哲学のアリーナには、個体、種、同一性、実体、本質などの形而上学的概念が大手を振って飛び交うことになったのである。 そうした動向をさしずめ「分析的形而上学」とでも呼ぶことができる」(野家 2004)

【可能世界論

「可能世界論(かのうせかいろん、英: possible world)は、論理学・哲学において、可能性、必然性、偶然性などの様相命題を論理的に扱うための理論的装置である。可能世界の概念は論理学において広く定着しているが、その解釈の仕方を巡っては議論も多い。」

【可能性、偶然性、必然性】可能世界の考えはライプ ニッツに始まるとされる。ライプニッツは可能世界の概念を神の心に結びつけて用い、現実に創造された世界が「全ての可能世界の中で最善のものである」と論 じた。また可能世界のアイディアはルクレティウス、イブン・ルシュド、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの著作に遡ることができるとする研究者もいる。

現在の可能世界論は、可能性や必然性の意味論を扱うため、ソール・クリプキらによって1950年代に導入された。可能世界論では、現実世界は無数の可能世界のなかの一つであると考える。世界について考えうる異なる「あり方」ごとに異なる可能世界があるとされ、そのなかで我々が実際に暮らしているのが「現実世界」である。これに基づき、可能性や必然性について、以下のように分析することができる。

1. 真なる命題とは、現実世界において真であるような命題である。

2. 可能な命題とは、少なくとも一つの可能世界において真であるような命題である。

3. 偶然的な命題とは、それが真である可能世界も、偽である可能世界も存在するような命題である。

4. 必然的な命題とは、全ての可能世界で真であるような命題である。

5. 不可能な命題(必然的に偽の命題)とは、全ての可能世界で偽であるような命題である。

「クリプキ意味論」はしばしば可能世界意味論と同義で扱われるが、クリプキ意味論は必ずしも必然性・偶然性といった真理論的様相に限った理論ではなく、また「可能世界」という表現から前提されがちな様相実在論的な意味合いはない。

【様相論理から哲学へ】

「「可能世界」は様々な哲学的探究において中心的な 位置を占めた。中でも、デイヴィッド・ルイスとロバート・スタルネイカーによる、近傍可能世界を用いた反事実条件文の分析は有名である。この分析では、我 々が反事実条件文を用いて「もし...だったとすれば、...だっただろう」と論じるとき、その主張の真偽は、その前件を満たすような最も現実世界に近い 世界において、後件が真かどうかによって決定される。「近い世界」とは、できるだけ多くの事実を共有している世界、ということである。

例えば「2000年のアメリカ大統領選挙でブッシュが大統領にならなかったとしたら、ゴアが大統領になっていただろう」という文は、次のような主張を表現 したものだと定式化することができる。「ブッシュが大統領にならなかった可能世界のうち、我々の現実世界に最も近い全ての世界において、ゴアが大統領に なっている」。この解釈に基づけば、もしブッシュが大統領にならなかった現実世界に最も近い世界のうち、ゴアも大統領になっていないような世界があるとす れば、この反事実条件文によって表現された主張は「偽」である、ということになる。

このほかにも可能世界論は哲学の議論において中心的役割を演じている。例えば心の哲学における機能主義や物理主義をめぐる議論がそれである。また可能世界 の存在論的位置づけについて、デイヴィッド・ルイスが様相実在論を擁護したことで、論争が加熱している。様相実在論は、我々の住んでいる世界の外に可能世 界が「実際に存在する」とする議論である。

ルイスは、様相論理が機能し可能世界意味論が正しいとすれば、世界において何が真でなければいけないのか、我々が様相表現の解釈において量化している可能 世界とはいったい何なのか、を問うた。そして、我々が量化している可能世界とは、この現実世界が「存在する」のと同様の意味で存在している、実在的かつ具 体的な世界にほかならないとした。そうした諸可能世界は、我々の現実世界との間にいかなる空間的・時間的・因果的関係も持たないという点で現実世界から区 別されるにすぎないのである。ルイスによれば、現実世界が持っている特別な性質というのは唯一、関係的なものでしかない。つまり、「我々が」そこに住んで いる、という性質である。即ち「現実に」は、「私」や「今」といった概念と同じように指標的なものにすぎない、ということになる。

一方、ロバート・アダムズやウィリアム・ライカンは、ルイスによる描像は形而上学的に突飛に過ぎるとして拒絶し、可能世界を、世界についての無矛盾で最大 限詳細な記述ないし命題の集合であるとする。この解釈では、可能世界は「あるあり方をした世界」ではなく、「世界がそのようでありうるようなあり方の記 述」であることになる。この立場や、アルヴィン・プランティンガやピーター・フォレストによる類似した議論を、ルイスは「代替様相実在論」と呼び、そのよ うな立場は可能世界意味論の御利益を「安く買い叩こうとする」ものであり、究極的には適切な説明に失敗する、と反論している。クリプキは著書『名指しと必 然性』のなかでルイスの可能世界意味論の使用に対してオープンな議論を行い、可能世界を純粋に形式的・論理的な存在物とする規約的な見方を擁護し、可能世 界を現実に存在する世界とする議論や、命題や記述の集合とみる見方を退けている。」

■野家先生は、ヒュームに戻れとおっしゃる、そのと おり!

「ある対象がそれ自身と同一であると言うときは、一 つの時点に存在するその対象が、別の時点に存在するそれ自身と同一であるという意味でない限り、いかにしても適正な語り方(propriety of speech)とはいえない」のであり、「それゆえ、個体化〔同一性〕の原理とは、想定された時間変化を通じた任意の対象の不変性と途切れなさ以外のもの ではない」(『人性論』第一篇第四部第二節)」(野家 2004、によるヒュームの説明)

■ざらざらとした大地のみならず、「適正な語り」を せよと、野家先生はおっしゃる、それもまた然り!

「哲学者の役目は時間を科学的に考察することでも内 的時間意識を反省することでもなく、時間に関してヒュームの言う「適正な語り方」を探究することに存するのである。 あるいは、科学哲学者や現象学者の時間をめぐる緻密な分析も、時間という対象を腑分けしているように見えながら、実際には時間という現象の「適正な語り 方」を模索しているのだと言ってもよい。 そう考えるならば、フッサール晩年の「生き生きした現在」をめぐる詰屈した思索も、時間を「その生れ出づる状態において」捉える新たな語り方を創出しよう とする「不断の辛苦」(メルロ=ポンティ)にほかならなかったのである」(野家 2004)

■A. P. Martinich & D. Sosa eds., Analytic Philosophy : An Anthology, Blackwell. 2001.

第2部に形而上学が配される。

■ 木田元によると、反哲学を実践したのは、ハイデ ガーメルロ=ポンティだという

まず「反哲学」とは?→「哲学は,巨大な技術文明を 生む西洋文化を可能にした特異な知の様式である.現代哲学は哲学を乗り越え可能な歴 史概念とみなし,その前提を掘り返して検討に付そうとする.この思想的 営みを反哲学とよぶ.ソクラテス以降の伝統的な存在論を解体しようとしたハイデガーを柱に,哲学の本質を反哲学から逆照射する現代哲学入 門」木田元『哲学 と反哲学』岩波書店、解説

そして書肆からの宣伝文:「反哲学とは何であるかについて,木田元氏はハイデガーとメルロ=ポンティの立場を紹介していま す.両者は自分たちの思想的営為を「哲学」と呼ぼうとしませんでした.ハイデ ガーは自らの思想的営みを「存在への回想」と名づけ,哲学の歴史つまり伝統的 な存在論の歴史を解体してそれまでに塞がれていた存在への通路を切り拓き,存在へ想いをかえそうとすることを考えていました.メルロ=ポンティも最晩年に は自らの思想的営為を「否定哲学」とか「非哲学」「否哲学」「反哲学」と呼びました.ヘーゲル哲学の後に生じた哲学の空白にあってマルクスやニーチェが哲 学の拒否から出発したことをあげ,そのとき「非哲学の時代に入った」とメルロ=ポンティは述べています.非哲学によって哲学たらんとする哲学,否定神学の ように否定を重ねることで絶対者への通路を開こうとする意味での「否定哲学」ということを考えたのです.いずれにせよ,この現代哲学の二人 の巨人は「哲学」を乗り越え可能な一つの歴史概念だと見ていたと木田氏は考えます.

このような反哲学の立場で最大の問題は当然のことながら存在をめぐる議論です.木田元氏の著書『ハイデガー』(岩波現代文庫)でも考察されたハイデガー の構想していた西洋哲学史とは,存在の形而上学の歴史ともいえるもので,ソクラテス以後の哲学史は,〈存在〉が〈事実存在〉(……ガアル)と〈本質存在〉 (それは何であるか? ……デアル)に分岐していった歴史だそうです.  人間は環境に繋縛されてそこに埋没して生きる動物とはちがって,自ら存在という視点を設定して出会うものすべてを存在するものとして,つまり存在者とし て統一的にとらえることができる.存在という視野のうちにすべてのものが存在者として現われ出ていること,この事態こそがソクラテス以前のギリシア人に とっては驚くべきことであったとハイデガーはいう.

しかし,ソクラテス,プラトン,アリストテレスは,存在者の統一を可能にしているのは〈何であるか〉と 問うようになります.〈それは何であるか〉と問う問い方そのものがギリシア的,つまり西洋的,結局は〈哲学的〉なのであり,そこで問われているのは,当の ものが〈何であるか〉という本質存在ということになります.〈本質存在〉が〈事実存 在〉と区別されるだけでなく,〈本質存在〉が〈事実存在〉に対して優位に立ったのがソクラテス以降の形而上学の歴史だというわけです.  

サルトルの「実存は本質に先立つ」というあまりに有名な命題も,ハイデガーによれば,「本質は実存に先立つ」というプラトン以来の命題をひっくり返したものにすぎ ず,西洋の形而上学的命題にとどまったものだというのです.  ハイデガーは,〈本質存在〉と〈事実存在〉に分岐した形而上学によって〈始原の存 在〉が蔽い隠され,忘却されているのではないかと考えます.メルロ=ポンティも〈野生の存在〉の存在論を展開しました.  こうした伝統的な形而上学の解体のはてに「哲学」がみえてくるということを狙った「反哲学」を通奏低音として,本書はさまざまなテーマを変奏します.本 書でハイデガーの意図に関心をもつことがありましたら,その未完の主著『存在と時間』の当初の壮大な反哲学の構成を再現しようとした木田元氏の力作『ハイ デガー「存在と時間」の構築』(岩波現代文庫)もぜひお読みください.」https: //www.iwanami.co.jp/book/b255758.html

英語での説明:" is an opposition to traditional philosophy.[1][2] It may be characterized as anti-theoretical, critical of a priori justifications, and may see common philosophical problems as misconceptions that are to be dissolved.[3] Common strategies may involve forms of relativism, skepticism, nihilism, or pluralism.[4] The term has been used as a denigrating word[5] but is also used with more neutral or positive connotations.[1][2] Boris Groys's 2012 book Introduction to Antiphilosophy discusses thinkers such as Kierkegaard, Shestov, Nietzsche, and Benjamin, characterizing their work as privileging life and action over thought.[4]" //en.wikipedia.org/wiki/Antiphilosophy

出典(文献)

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デカルトに心酔する君、ハイデガーに心酔する君の先 生への、挑戦状だと思って読んでみてはいかがでしょうか?


日常言語 の有意味な文
日常言語 における意味から無意味への転化
論理的に 正しい言語
A.何が外にあるか?
雨が外にある。
B.この雨についてはどうか?
1.われわれは雨を知っている
2.雨が雨降る
A.何が外にあるか?
無が外にある。
B.この無についてはどうか?
1.われわれは無を探す
われわれは無を見いだす
われわれは無を知っている
2.無が無化する。
3.無は実在する。
A.外にあるものは何もない。
B.これらの形式はどれも構成すらできない

出典:「言語の論理的分析による形而上学の克服」 (カルナップ 1977:21)



Japanese text ( passwords will be requested) Carnap_1932.pdf

", also called logical empiricism, a philosophical movement that arose in Vienna in the 1920s and was characterized by the view that scientific knowledge is the only kind of factual knowledge and that all traditional metaphysical doctrines are to be rejected as meaningless. A brief treatment of logical positivism follows. For full treatment, see positivism: Logical positivism and logical empiricism. Logical positivism differs from earlier forms of empiricism and positivism (e.g., that of David Hume and Ernst Mach) in holding that the ultimate basis of knowledge rests upon public experimental verification or confirmation rather than upon personal experience. It differs from the philosophies of Auguste Comte and John Stuart Mill in holding that metaphysical doctrines are not false but meaningless—that the “great unanswerable questions” about substance, causality, freedom, and God are unanswerable just because they are not genuine questions at all. This last is a thesis about language, not about nature, and is based upon a general account of meaning and of meaninglessness. All genuine philosophy (according to the group that came to be called the Vienna Circle) is a critique of language, and (according to some of its leading members) its result is to show the unity of science—that all genuine knowledge about nature can be expressed in a single language common to all the sciences." from .

論理実証主義、あるいは論理的経験主義とも呼ばれるものは、1920年代にウィーンで生まれた哲学運動で、科学的知識こそが唯一の事実的知識であり、伝統的な形而上学的教義はすべて無意味なものとして否定するという見解を特徴とする。以下、論理実証主義について簡潔に説明しよう。その完全な解説については、実証主義を参照こと。論理実証主義、論理的経験主義を参照。論 理実証主義は、知識の究極的な根拠は個人的な経験よりも公的な実験による検証や確認にあるとする点で、以前の経験主義や実証主義の形態(例えばデイヴィッ ド・ヒュームやエルンスト・マッハのそれ)とは異なっており、また、形而上学的な教義とは偽りではなく無意味なのだと主張する。つまり、実体、因果、自 由、神に関する「答えのない大きな問い」は、真の問いではないだけに答えようがないとする点で、オーギュスト・コントやジョン・スチュアート・ミルの哲学 とも異なっている。この最後の問題は、自然についてではなく、言語についてのテーゼであり、意味と無意味についての一般的な説明に基づいている。ウィー ン学団と呼ばれるようになったグループによれば)本物の哲学はすべて言語に対する批判であり、(その主要メンバーの何人かによれば)その結果は、科学の統 一性、すなわち自然に関するすべての真の知識はすべての科学に共通する単一の言語で表現できることを示すことにあった

Tipica "Mano Guidoniana" da un manoscritto composto in Italia nel 1460 circa. Era un semplice sistema mnemonico per aiutare i cantanti nel medioevo.

Sum ergo cogito - Gli Angeli del Botticelli. Dettaglio della Pala di San Barnaba di Sandro Botticelli (Alessandro di Mariano di Vanni Filipepi) (Firenze 1445 - 1510). Tempera su tavola, 268 x 280 cm, 1487. Uffizi, Firenze

Cogito ergo es, Cogitas ergo sum - Petrarca dobule

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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