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カントの定言命法

Kategorischer Imperativ, categorical imperative, あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ

池田光穂

カントの定言命法とは『人倫の形而上学の 基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten) において示され、1781年『純粋理性批判』Kant, Immanuel: Kritik der reinen Vernunft. Riga: J. F. Hartknoch 1781, 856 Seiten, Erstdruck.に、理論的に修正されたもの。『人倫の形而上学の基礎づけ』(じんりんのけいじじょうがくのきそづけ、独: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)は、1785年に出版されたイマヌエル・カントの倫理学・形而上学に関する著作。3年後の1788年に出版される実践理性批判と共に実践哲 学を扱っている。実践理性批判、人倫の形而上学と並びカント倫理学の主要著書の一つである。『道徳形而上学の基礎づけ』や『道徳形而上学原論』とも訳され てきた。

Kategorischer Imperativ, categorical imperative 定言命法[1](ていげんめいほう、独: Kategorischer Imperativ[2]、英: categorical imperative)とは、カント倫理学における根本的な原理であり、無条件に 「~せよ」と命じる絶対的命法である[3]。定言的命令(ていげんてきめいれい)とも言う。『人倫の形而上学の基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten) において提出され、『実践理性批判』において理論的な位置づけが若干修正された。『実践理性批判』の§7において「純粋実践理性の根本法則」として次のよ うに定式化される。

あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるよ うに行為せよ

Handle nur nach derjenigen Maxime, durch die du zugleich wollen kannst, dass sie ein allgemeines Gesetz werde.-  Immanuel Kant: AA IV, 421

Act as if the maxims of your action were to become through your will a universal law of nature.

カントによれば、この根本法則に合致しうる行為が義務として我々に妥当する行為であり、道徳的法則に従った者だけが良い意志を実現させるということであ る。 他のあらゆる倫理学の原則は「~ならば、~せよ」という仮言命法であるのに対して、カントの定言命法は「~ならば」という条件が無い『無条件の行為』を要 求する。 一例として、「幸福になりたいならば嘘をつくな」という仮言命法を採用する場合の問題が挙げられる。ここでは「幸福になること」と「嘘をつかないこと」の 間に必然性が有るのか無いのかが問題となる。「嘘をつかないこと」は幸福になるための都合の良い手段にすぎない。従って、もし「幸福になること」と「嘘を つかないこと」の間に必然性が見出されない(つまり道徳で幸福を得られない)場合には、「幸福になることを目的にする人」は不道徳(嘘をつくこと)を行う ことになる。すなわち、カントは自身の意志を普遍的立法の原理と妥当するように行動することを求めているため、我々は一切の自愛の原理に基づく幸福への意 図を断ち切り、普遍的立法に合致する格率によって意志を確立しなければならないわけである。 また、仮言命法において何が道徳的かであるかの洞察は、行為(嘘をつくこと)と帰結(幸福)との間の自然必然性の洞察であり、経験論に属するものでしかな い。条件節を欠くカントの定言命法は、倫理学が経験論の範囲に陥ることを防ぎ、経験論から独立した純粋に実践的な倫理学の範囲を確保するのである。

The categorical imperative, which states that one must act only according to maxims which one could will to become a universal law.

●上掲の定言命法を根拠づける、カントの 論理あるいは理論(=自己正当化のための論理)

  • 1)我々は、外から与える感覚情報を受 け身に捉えるのではない。
  • 2)認識が可能なのは、我々の精神が経 験を組織化し体系づける能動的な作業によっておこなわれる。
  • 3)我々は、時間と空間と実体という枠 組み(カテゴリー)により世界を認知している。
  • 4)時間と空間と実体は、我々と独立し て存在するのではない。それらは、我々の直観や理性(つまり想像)の産物であり、それなしには捉えられない。
  • 5)では、世界の実体はどのようなもの か?(このカントの問題の立て方が、アルキメデスの立場や視座を想定してナンセンスなのだが)カン トはそれ答 えられない。そのような「独立した実体」(←これもナンセンス)を物自体(Ding an sich)と呼ぶ。物自体の世界には、永遠に認識できない世界 がだが、それはかつてのキリスト教の「天国」のようだ。それゆえ、カントを批判する神学者たちは、カントのこの「物自体」という仮想の(独立した実体の) 世界を反キリスト教的 なものだと、その匂いを嗅ぎつけた。
  • 6)池田による追加:このためには「普遍的法則(a universal law of nature)」 が何たるかを知らない限り、そしてその原則で行為することが、「誰にもできない超絶技巧のものでない」ということも、定言命法を成り立たせる必須条件であ る。定言命法が「誰にもできない超絶技巧のものであれば」、それはショーペンハウエルが批判してやまない、「カント哲学はエゴイズムの塊だ」つまり、カン トしかできない超絶技巧の倫理学命法を俺たちに押し付けるのかい?と反語的に質問することができる。

  • ※この続きは「『道徳形而上学原論』(, 1785)」でおこないます。

    ●『道徳形而上学原論』(, 1785)

    『人倫の形而上学の基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)は、1785年に出版されたイマヌエル・カントの倫理学・形而上学に関する著作。3年後の1788年に出版される実践理性批判と共に実践哲 学を扱っている。実践理性批判、人倫の形而上学と並びカント倫理学の主要著書の一つである。

    Groundwork of the Metaphysics of Morals (1785; German: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten; also known as the Foundations of the Metaphysics of Morals, Grounding of the Metaphysics of Morals, and the Grounding for the Metaphysics of Morals) is the first of Immanuel Kant's mature works on moral philosophy and remains one of the most influential in the field. Kant conceives his investigation as a work of foundational ethics—one that clears the ground for future research by explaining the core concepts and principles of moral theory, and showing that they are normative for rational agents.

    Kant proposes to lay bare the fundamental principle of morality and show that it applies to us. Central to the work is the role of what Kant refers to as the categorical imperative, which states that one must act only according to maxims which one could will to become a universal law. Kant argues that the rightness of an action is determined by the principle that a person chooses to act upon. This stands in stark contrast to the moral sense theories and teleological moral theories that dominated moral philosophy at the time of Kant's career.

    The Groundwork is broken into a preface, followed by three sections. Kant begins from common-sense moral reason and shows by analysis the supreme moral law that must be its principle. He then argues that the supreme moral law in fact obligates us. The book is famously difficult,[citation needed] and it is partly because of this that Kant later, in 1788, decided to publish the Critique of Practical Reason.[citation needed]
    『道徳の形而上学の基礎』(1785年、ドイツ語: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten、『道徳の形而上学の基礎』、『道徳の形而上学の基礎』、『道徳の形而上学の基礎』とも呼ばれる)は、イマヌエル・カントの道徳哲学に関する 成熟した著作の最初のものであり、この分野で最も影響力のあるものの一つである。カントはこの著作を、道徳理論の核となる概念と原理を説明し、それらが理 性的主体にとって規範的であることを示すことによって、将来の研究のための基盤を整える、倫理学の基礎となる著作と位置づけている。

    カントは道徳の基本原理を明らかにし、それが私たちにも当てはまることを示すことを提案している。この著作の中心は、カントが定言命法と呼ぶものの役割である。定言命法とは、人が普遍的な法則となるよう意志しうる極限に従ってのみ行動しなければならないとするものである。カントは、ある行為の正しさは、人がその行為を選択する原理によって決定されると主張する。これは、カントが活躍した当時の道徳哲学を支配していた道徳感覚論や目的論的道徳論とは対照的である。

    本書は序文と3つのセクションに分かれている。カントは常識的な道徳的理性から出発し、その原理となるべき至高の道徳法則を分析によって示す。そして、至 高の道徳律が実際に私たちに義務を課していることを論証する。本書が難解であることは有名であり[要出典]、後にカントが1788年に『実践理性批判』を 出版することを決めたのは、そのためでもあった[要出典]。
    Preface
    In the preface to the Groundwork, motivating the need for pure moral philosophy, Kant makes some preliminary remarks to situate his project and explain his method of investigation.

    Kant opens the preface with an affirmation of the Ancient Greek idea of a threefold division of philosophy into logic, physics, and ethics.

    Logic is purely formal—it deals only with the form of thought itself, not with any particular objects. Physics and ethics, on the other hand, deal with particular objects: physics is concerned with the laws of nature, ethics with the laws of freedom. Additionally, logic is an a priori discipline, i.e., logical truths do not depend on any particular experience for their justification. By contrast, physics and ethics are mixed disciplines, containing empirical and non-empirical parts. The empirical part of physics deals with contingently true phenomena, like what kind of physical entities there are and the relations in which they stand; the non-empirical part deals with fundamental concepts like space, time, and matter. Similarly, ethics contains an empirical part, which deals with the question of what—given the contingencies of human nature—tends to promote human welfare, and a non-empirical part, which is concerned with an a priori investigation into the nature and substance of morality.

    Because it is a priori, Kant calls this latter, non-empirical part of ethics metaphysics of morals. It corresponds to the non-empirical part of physics, which Kant calls metaphysics of nature.
    序文
    純粋道徳哲学の必要性を説いた『基礎づけ』の序文で、カントは自分のプロジェクトを位置づけ、研究の方法を説明するために、いくつかの予備的な発言をしている。

    カントは序文の冒頭で、哲学を論理学、物理学、倫理学の3つに分けるという古代ギリシアの考え方を肯定している。

    論理学は純粋に形式的なものであり、特定の対象ではなく、思考の形式そのもののみを扱う。一方、物理学と倫理学は特定の対象を扱う。物理学は自然の法則、 倫理学は自由の法則に関わる。さらに、論理学はアプリオリな学問であり、論理的真理はその正当化のために特定の経験に依存しない。対照的に、物理学と倫理 学は経験的な部分と非経験的な部分が混在する学問である。物理学の経験的な部分は、どのような物理的実体が存在し、それらがどのような関係にあるのかと いった、偶発的に真実となる現象を扱い、非経験的な部分は、空間、時間、物質といった基本的な概念を扱う。同様に、倫理学には、人間の本性の偶発性を考慮 した上で、何が人間の福祉を促進する傾向にあるのかという問題を扱う経験的な部分と、道徳の本質と実体に関するアプリオリな調査に関わる非経験的な部分が ある。

    先験的であることから、カントは倫理学の後者の非経験的な部分を道徳の形而上学と呼んでいる。これは、カントが自然の形而上学と呼ぶ物理学の非経験的部分に相当する。
    Metaphysics of morals
    Kant proceeds to motivate the need for the special sort of inquiry he calls a metaphysics of morals: “That there must be such a philosophy is evident from the common idea of duty and of moral laws.” The moral law must “carry with it absolute necessity.”[i]

    The content and the bindingness of the moral law, in other words, do not vary according to the particularities of agents or their circumstances. Given that the moral law, if it exists, is universal and necessary, the only appropriate means to investigate it is through a priori rational reflection. Thus, a correct theoretical understanding of morality requires a metaphysics of morals. Kant believes that, until we have completed this sort of investigation, “morals themselves are liable to all kinds of corruption” because the “guide and supreme norm for correctly estimating them are missing.” A fully specified account of the moral law will guard against the errors and rationalization to which human moral reasoning is prone.[ii] The search for the supreme principle of morality—the antidote to confusion in the moral sphere—will occupy Kant for the first two chapters of the Groundwork.

    Pure ethics
    In essence, Kant's remarks in the preface prepare the reader for the thrust of the ideas he goes on to develop in the Groundwork. The purpose of the Groundwork is to prepare a foundation for moral theory. Because Kant believes that any fact that is grounded in empirical knowledge must be contingent, he can only derive the necessity that the moral law requires from a priori reasoning. It is with this significance of necessity in mind that the Groundwork attempts to establish a pure (a priori) ethics. Such an ethics explains the possibility of a moral law and locates what Kant calls the supreme principle of morality. The aim of the following sections of the Groundwork is to explain what the moral law would have to be like if it existed and to show that, in fact, it exists and is authoritative for us.
    道徳の形而上学
    カントは、道徳の形而上学と呼ぶ特別な探求の必要性を説いている: 「このような哲学が存在しなければならないことは、義務や道徳法則についての一般的な考え方から明らかである。道徳律は「絶対的必然性を持っていなければならない」[i]。(→「カント倫理学の誤読」「西洋倫理学の3つの伝統に関するレクチャー」)

    言い換えれば、道徳律の内容と拘束力は、行為者やその状況の特殊性に応じて変化することはない。道徳律が存在するとすれば、それが普遍的かつ必然的なもの であることを考えれば、それを究明するための唯一の適切な手段は、アプリオリな合理的考察を通じたものである。したがって、道徳を理論的に正しく理解する には、道徳の形而上学が必要となる。カントは、この種の研究が完了するまでは、「道徳そのものがあらゆる種類の堕落を招きやすい」と考えている。なぜな ら、「道徳を正しく評価するための指針と最高の規範が欠落しているからである」。道徳法則を完全に特定した説明は、人間の道徳的推論が陥りやすい誤謬や合 理化から身を守ることになる[ii]。道徳の最高原理を探求すること、すなわち道徳領域の混乱に対する解毒剤は、『土台』の最初の2章をカントの占有する ことになる。

    純粋倫理
    要するに、序文におけるカントの発言は、読者に対して、彼が『根拠』において展開する思想の推進力を準備するものである。その目的は、道徳理論の基礎を準 備することである。カントは、経験的知識に基づく事実はすべて偶発的なものでなければならないと考えているため、道徳律が要求する必然性をアプリオリな推 論から導き出すことしかできない。必然性のこのような意義を念頭に置いて、『グラウンドワーク』は純粋な(アプリオリな)倫理学の確立を試みているのであ る。このような倫理学は、道徳律の可能性を説明し、カントが道徳の至高原理と呼ぶものの所在を明らかにする。もし道徳律が存在するとしたら、それはどのよ うなものでなければならないかを説明し、実際、道徳律は存在し、私たちにとって権威あるものであることを示すことが、『根拠』の以下の部分の目的である。
    Section One
    In section one, Kant argues from common-sense morality to the supreme principle of morality, which he calls the categorical imperative. Kant thinks that uncontroversial premises from our shared common-sense morality, and analysis of common sense concepts such as ‘the good’, ‘duty’, and ‘moral worth’, will yield the supreme principle of morality (i.e., the categorical imperative). Kant's discussion in section one can be roughly divided into four parts:

    the good will;
    the teleological argument;
    the three propositions regarding duty; and
    the categorical imperative.
    The Good Will
    Kant thinks that, with the exception of the good will, all goods are qualified. By qualified, Kant means that those goods are good insofar as they presuppose or derive their goodness from something else. For example, wealth can be extremely good if it is used for human welfare, but it can be disastrous if a corrupt mind is behind it. In a similar vein, we often desire intelligence and take it to be good, but we certainly would not take the intelligence of an evil genius to be good. The good will, by contrast, is good in itself. Kant writes, “A good will is not good because of what it effects or accomplishes, because of its fitness to attain some proposed end, but only because of its volition, that is, it is good in itself.”[iii] The precise nature of the good will is subject to scholarly debate.

    The Teleological Argument
    Kant believes that a teleological argument may be given to demonstrate that the “true vocation of reason must be to produce a will that is good.”[iv] As with other teleological arguments, such as the case with that for the existence of God, Kant's teleological argument is motivated by an appeal to a belief or sense that the whole universe, or parts of it, serve some greater telos, or end/purpose. If nature's creatures are so purposed, Kant thinks their capacity to reason would certainly not serve a purpose of self-preservation or achievement of happiness, which are better served by their natural inclinations. What guides the will in those matters is inclination.

    By the method of elimination, Kant argues that the capacity to reason must serve another purpose, namely, to produce good will, or, in Kant's own words, to “produce a will that is...good in itself.” Kant's argument from teleology is widely taken to be problematic: it is based on the assumption that our faculties have distinct natural purposes for which they are most suitable, and it is questionable whether Kant can avail himself of this sort of argument.

    The Three Propositions Regarding Duty
    The teleological argument, if flawed, still offers that critical distinction between a will guided by inclination and a will guided by reason. That will which is guided by reason, Kant will argue, is the will that acts from duty. Kant's argument proceeds by way of three propositions, the last of which is derived from the first two.

    First proposition
    Although Kant never explicitly states what the first proposition is, it is clear that its content is suggested by the following common-sense observation. Common sense distinguishes among:

    the case in which a person clearly acts contrary to duty;
    the case in which a person's actions coincide with duty, but are not motivated by duty; and
    the case in which a person's actions coincide with duty because he or she is motivated by duty.
    Kant thinks our actions only have moral worth and deserve esteem when they are motivated by duty. Kant illustrates the distinction between (b) and (c) with the example of a shopkeeper who chooses not to overcharge an inexperienced customer.[v] The shopkeeper treats his customer fairly, but because it is in his prudent self-interest to do so, in order to preserve his reputation, we cannot assume that he is motivated by duty, and thus the shopkeeper's action cannot be said to have moral worth. Kant contrasts the shopkeeper with the case of a person who, faced with “adversity and hopeless grief”, and having entirely lost his will to live, yet obeys his duty to preserve his life.[vi] Because this person acts from duty, his actions have moral worth. Kant also notes that many individuals possess an inclination to do good; but however commendable such actions may be, they do not have moral worth when they are done out of pleasure. If, however, a philanthropist had lost all capacity to feel pleasure in good works but still did pursue them out of duty, only then would we say they were morally worthy.

    Scholars disagree about the precise formulation of the first proposition.[citation needed] One interpretation asserts that the missing proposition is that an act has moral worth only when its agent is motivated by respect for the law, as in the case of the man who preserves his life only from duty.[citation needed] Another interpretation asserts that the proposition is that an act has moral worth only if the principle acted upon generates moral action non-contingently. If the shopkeeper in the above example had made his choice contingent upon what would serve the interests of his business, then his act has no moral worth.[citation needed]

    Kant states that this is how we should understand the Scriptural command to love even one's enemy: love as inclination or sentiment cannot be commanded, only rational love as duty can be.

    Second proposition
    Kant's second proposition states:[vii]

    [A]n action from duty has its moral worth not in the purpose to be attained by it but in the maxim in accordance with which it is decided upon, and therefore does not depend upon the realization of the object of the action but merely upon the principle of volition in accordance with which the action is done without regard for any object of the faculty of desire.”

    A maxim of an action is its principle of volition. By this, Kant means that the moral worth of an act depends not on its consequences, intended or real, but on the principle acted upon.

    Third proposition
    Kant combines these two propositions into a third proposition, a complete statement of our common sense notions of duty. This proposition is that ‘duty is necessity of action from respect for law.’[vii] This final proposition serves as the basis of Kant's argument for the supreme principle of morality, the categorical imperative.

    Categorical Imperative: Universality
    Main article: Categorical imperative
    Kant believes that all of our actions, whether motivated by inclination or morality, must follow some law. For example, if a person wants to qualify for nationals in ultimate frisbee, he will have to follow a law that tells him to practice his backhand pass, among other things. Notice, however, that this law is only binding on the person who wants to qualify for nationals in ultimate frisbee. In this way, it is contingent upon the ends that he sets and the circumstances that he is in. We know from the third proposition, however, that the moral law must bind universally and necessarily, that is, regardless of ends and circumstances.

    At this point, Kant asks, "what kind of law can that be, the representation of which must determine the will, even without regard for the effect expected from it...?"[viii] He concludes that the only remaining alternative is a law that reflects only the form of law itself, namely that of universality. Thus, Kant arrives at his well-known categorical imperative, the moral law referenced in the above discussion of duty. Kant defines the categorical imperative as the following:[viii]

    I ought never to act except in such a way that I could also will that my maxim should become a universal law.

    Later, at the beginning of Section Two, Kant admits that it is in fact impossible to give a single example of an action that could be certainly said to have been done from duty alone, or ever to know one's own mind well enough to be sure of one's own motives. The important thing, then, is not whether such pure virtue ever actually exists in the world; the important thing is that that reason dictates duty and that we recognize it as such.
    第一節
    第1節では、カントは常識的な道徳から、定言命法と呼ぶ道徳の最高原理までを論じている。カントは、私たちが共有する常識的道徳観から議論の余地のない前 提を得、「善」、「義務」、「道徳的価値」といった常識的概念を分析することで、道徳の最高原理(すなわち定言命法)が得られると考えている。第1節のカ ントの議論は、大きく4つの部分に分けられる:

    善意
    目的論的議論
    義務に関する3つの命題
    定言命法である。
    善意
    カントは、善意を除いて、すべての財は修飾されていると考える。カントが言う「限定的」とは、財が他の何かを前提とする限りにおいて、あるいは他の何かか らその善性を派生させる限りにおいて、それらの財は善であるということである。たとえば、富は、それが人間の福祉のために使われるならば、きわめて善良な ものでありうるが、その背後に堕落した心があるならば、悲惨なものとなりうる。同様に、私たちはしばしば知性を望み、それを善とするが、悪の天才の知性を 善とすることはないだろう。対照的に、善なる意志はそれ自体が善である。カントは、「善い意志は、それが作用したり達成したりするから善いのではなく、あ る提案された目的を達成するのに適しているから善いのであって、その意志があるから善いのではない、すなわち、それ自体が善いのである」[iii]と書い ている。

    目的論的議論
    カントは、「理性の真の使命は、善である意志を生み出すことでなければならない」[iv]ことを証明するために、遠隔論的論証を行うことができると考えて いる。神の存在を論証する場合のような他の遠隔論的論証と同様に、カントの遠隔論的論証は、宇宙全体やその一部が何らかの大きなテロス、すなわち目的/目 的に奉仕しているという信念や感覚に訴えることによって動機づけられる。もし自然の被造物にそのような目的があるとすれば、カントは、彼らの理性の能力 は、自己保存や幸福の達成という目的には役立たないだろうと考える。そのような事柄において意志を導くものは傾倒である。

    消去法によって、カントは理性の能力が別の目的、すなわち善い意志を生み出すこと、カント自身の言葉を借りれば、"それ自体善である意志を生み出すこと "に役立つはずだと主張する。カントの目的論からの議論は、広く問題があると考えられている。それは、我々の能力が最も適した明確な自然目的を持っている という仮定に基づいており、カントがこの種の議論を援用できるかどうかは疑問である。

    義務に関する三つの命題
    目的論的議論は、たとえ欠陥があるとしても、傾きに導かれた意志と理性に導 かれた意志との間の決定的な区別を提供する。理性に導かれた意志とは、義務から行動する意志であるとカントは主張する。カントの議論は3つの命題によって 進められ、最後の命題は最初の2つの命題から導かれる。

    第一命題
    カントは第一命題が何であるかを明言しないが、その内容が次のような常識的観察によって示唆されていることは明らかである。常識は次のように区別する:

    人が明らかに義務に反して行動する場合;
    人の行動が義務と一致しているが、義務に動機づけられていない場合。
    人の行動が義務と一致するのは、その人が義務に動機づけられているからである。
    カントは、私たちの行為が道徳的価値を持ち、尊敬に値するのは、義務に動機づけられたときだけだと考えている。カントは(b)と(c)の区別を、経験の浅 い客に過剰な料金を請求しないことを選択する店主の例で説明する[v]。店主は客を公平に扱うが、そうすることが彼の評判を維持するための慎重な自己利益 であるため、彼が義務に動機づけられていると仮定することはできず、したがって店主の行為は道徳的価値を有するとは言えない。カントは店主を、「逆境と絶 望的な悲しみ」に直面し、生きる意志を完全に失ったにもかかわらず、自分の生命を守るために義務に従う人の場合と対比している[vi]。カントはまた、多 くの個人は善を行おうとする気持ちを持っているが、そのような行為がいかに称賛に値するものであっても、それが快楽のために行われる場合には、道徳的価値 はないと指摘する。しかし、ある博愛主義者が善行に快楽を感じる能力を失っていたとしても、義務として善行に励んでいたとしたら、そのとき初めて道徳的価 値があると言えるのである。

    最初の命題の正確な定式化については、学者の間でも意見が分かれるところである[citation needed]。ある解釈では、この命題の欠落は、ある行為が道徳的価値を持つのは、その行為者が法を尊重することによって動機づけられている場合に限ら れる、と主張する[citation needed]。また別の解釈では、この命題は、ある行為が道徳的価値を持つのは、行為された原理が道徳的行為を非偶発的に生み出す場合に限られる、と主 張する[citation needed]。もし上記の例の店主が、自分の商売の利益になるものを選択することを偶発的なものとしていたならば、彼の行為には道徳的価値はない[要出 典]。

    カントは、敵をも愛せよという聖書の命令をこのように理解すべきであると述べている。傾倒や感情としての愛は命令することができないが、義務としての理性的な愛だけは命令することができる。

    第二命題
    カントの第二命題は次のように述べている[vii]。

    [義務からの行為は、それによって達成されるべき目的に道徳的価値があるのではなく、それによって決定される極意に道徳的価値があるのであり、したがっ て、行為の対象の実現に依存するのではなく、欲望の能力のいかなる対象にも関係なく、行為がそれに従って行われる意志の原理にのみ依存するのである」。

    行為の極意とは、その意志の原理である。これによってカントは、行為の道徳的価値は、意図されたものであれ現実のものであれ、その結果ではなく、行為された原理に依存することを意味する。

    第三の命題
    カントはこれら2つの命題を第3の命題にまとめ、義務に関する私たちの常識的な観念を完全に言い表している。この命題は、「義務とは、法の尊重から生じる 行為の必然性である」[vii]というものである。この最後の命題は、道徳の最高原理である定言的命令に関するカントの議論の基礎となる。

    定言的命令 普遍性
    主な記事 範疇的命令
    カントは、私たちの行動はすべて、その動機が傾倒によるものであれ道徳によるものであれ、何らかの法則に従わなければならないと考えている。例えば、ある 人がアルティメット・フリスビーで全国大会の出場権を得たい場合、バックハンドパスの練習をしなさい、などという法律に従わなければならない。しかし、こ の法律は、アルティメット・フリスビーで全国大会への出場権を得ようとする人を拘束するものでしかないことに注意しよう。このように、この法律は、その人 が設定した目的と、その人が置かれている状況によって左右されるのである。しかし、私たちは第三命題から、道徳律は普遍的かつ必然的に、つまり目的や状況 に関係なく拘束されなければならないことを知っている。

    この時点でカントは、「そこから期待される効果に関係なくとも、その表象が意志を決定しなければならない......そのような法はどのようなものであり うるか」[viii]と問い、残された唯一の選択肢は、法の形式そのもの、すなわち普遍性のみを反映する法であると結論づける。こうしてカントは、彼のよ く知られた定言命法、すなわち上記の義務の議論において言及された道徳律に到達する。カントは定言命法を次のように定義している[viii]。

    カントは定言命法を次のように定義している[viii]。

    その後、第2節の冒頭でカントは、義務のみからなされたと確実に言えるような行為の例を一つ挙げることも、自分の動機を確信できるほど自分の心をよく知る ことも、実際には不可能であることを認めている。重要なのは、そのような純粋な徳が実際にこの世に存在するかどうかではなく、理性が義務を指示し、私たち がそれをそのように認識することなのである。
    Section Two
    In Section II, Kant starts from scratch and attempts to move from popular moral philosophy to a metaphysics of morals. Kant begins Section II of the Groundwork by criticizing attempts to begin moral evaluation with empirical observation. He states that even when we take ourselves to be behaving morally, we cannot be at all certain that we are purely motivated by duty and not by inclinations. Kant observes that humans are quite good at deceiving themselves when it comes to evaluating their motivations for acting, and therefore even in circumstances where individuals believe themselves to be acting from duty, it is possible they are acting merely in accordance with duty and are motivated by some contingent desire. However, the fact that we see ourselves as often falling short of what morality demands of us indicates we have some functional concept of the moral law.

    Kant begins his new argument in Section II with some observations about rational willing. All things in nature must act according to laws, but only rational beings act in accordance with the representation of a law. In other words, only rational beings have the capacity to recognize and consult laws and principles in order to guide their actions. Thus, only rational creatures have practical reason. The laws and principles that rational agents consult yield imperatives, or rules that necessitate the will. For example, if a person wants to qualify for nationals in ultimate frisbee, he will recognize and consult the rules that tell him how to achieve this goal. These rules will provide him with imperatives that he must follow as long as he wants to qualify for nationals.

    Imperatives
    Imperatives are either hypothetical or categorical. Hypothetical imperatives provide the rules an agent must follow when he or she adopts a contingent end (an end based on desire or inclination). So, for example, if I want ice cream, I should go to the ice cream shop or make myself some ice cream. However, notice that this imperative only applies if I want ice cream. If I have no interest in ice cream, the imperative does not apply to me.

    Kant posits that there are two types of hypothetical imperative—rules of skill and counsels of prudence. Rules of skill are determined by the particular ends we set and tell us what is necessary to achieve those particular ends. However, Kant observes that there is one end that we all share, namely our own happiness. Unfortunately, it is difficult, if not impossible, to know what will make us happy or how to achieve the things that will make us happy. Therefore, Kant argues, we can at best have counsels of prudence, as opposed to outright rules.

    Categorical Imperative: Laws of nature
    Main article: Categorical imperative
    Recall that the moral law, if it exists, must apply universally and necessarily. Therefore, a moral law could never rest on hypothetical imperatives, which only apply if one adopts some particular end. Rather, the imperative associated with the moral law must be a categorical imperative. The categorical imperative holds for all rational agents, regardless of whatever varying ends a person may have. If we could find it, the categorical imperative would provide us with the moral law.

    What would the categorical imperative look like? We know that it could never be based on the particular ends that people adopt to give themselves rules of action. Kant believes that this leaves us with one remaining alternative, namely that the categorical imperative must be based on the notion of a law itself. Laws (or commands), by definition, apply universally. From this observation, Kant derives the categorical imperative, which requires that moral agents act only in a way that the principle of their will could become a universal law.[ix] The categorical imperative is a test of proposed maxims; it does not generate a list of duties on its own. The categorical imperative is Kant's general statement of the supreme principle of morality, but Kant goes on to provide three different formulations of this general statement.

    The Formula of the Universal Law of Nature
    The first formulation states that an action is only morally permissible if every agent could adopt the same principle of action without generating one of two kinds of contradiction. This is called the Formula for the Universal Law of Nature, which states that one should, “act as if the maxim of your action were to become by your will a universal law of nature.”[ix] A proposed maxim can fail to meet such requirement in one of two ways.

    Contradiction in conception
    First, one might encounter a scenario in which one's proposed maxim would become impossible in a world in which it is universalized. For example, suppose a person in need of money makes it his or her maxim to attain a loan by making a false promise to pay it back. If everyone followed this principle, nobody would trust another person when he or she made a promise, and the institution of promise-making would be destroyed. However, the maxim of making a false promise in order to attain a loan relies on the very institution of promise-making that universalizing this maxim destroys. Kant calls this a "contradiction in conception" because it is impossible to conceive of the maxim being universalized.[x]

    Contradiction in willing
    Second, a maxim might fail by generating what Kant calls a "contradiction in willing."[x] This sort of contradiction comes about when the universalized maxim contradicts something that rational agents necessarily will. For example, a person might have a maxim never to help others when they are in need. However, Kant thinks that all agents necessarily wish for the help of others from time to time. Therefore, it is impossible for the agent to will that his or her maxim be universally adopted. If an attempt to universalize a maxim results in a contradiction in conception, it violates what Kant calls a perfect duty. If it results in a contradiction in willing, it violates what Kant calls an imperfect duty. Perfect duties are negative duties, that is duties not to commit or engage in certain actions or activities (for example theft). Imperfect duties are positive duties, duties to commit or engage in certain actions or activities (for example, giving to charity).

    In the Groundwork, Kant says that perfect duties never admit of exception for the sake of inclination,[xi] which is sometimes taken to imply that imperfect duties do admit of exception for the sake of inclination. However, in a later work (The Metaphysics of Morals), Kant suggests that imperfect duties only allow for flexibility in how one chooses to fulfill them. Kant believes that we have perfect and imperfect duties both to ourselves and to others.

    The Formula of Humanity
    The second formulation of the categorical imperative is the Formula of Humanity, which Kant arrives at by considering the motivating ground of the categorical imperative. Because the moral law is necessary and universal, its motivating ground must have absolute worth.[xii] Were we to find something with such absolute worth, an end in itself, that would be the only possible ground of a categorical imperative. Kant asserts that, “a human being and generally every rational being exists as an end in itself.”[xii] The corresponding imperative, the Formula of Humanity, commands that “you use humanity, whether in your own persona or in the person of any other, always at the same time as an end, never merely as a means.”[xiii] When we treat others merely as means to our discretionary ends, we violate a perfect duty. However, Kant thinks that we also have an imperfect duty to advance the end of humanity. For example, making a false promise to another person in order to achieve the end of getting some money treats their rational nature as a mere means to one's selfish end. This is, therefore, a violation of a perfect duty. By contrast, it is possible to fail to donate to charity without treating some other person as a mere means to an end, but in doing so we fail to advance the end of humanity, thereby violating an imperfect duty.

    The Formula of Autonomy and the Kingdom of Ends
    The Formula of Autonomy takes something important from both the Formula for the Universal Law of Nature and the Formula of Humanity. The Formula for the Universal Law of Nature involves thinking about your maxim as if it were an objective law, while the Formula of Humanity is more subjective and is concerned with how you are treating the person with whom you are interacting. The Formula of Autonomy combines the objectivity of the former with the subjectivity of the latter and suggests that the agent ask what he or she would accept as a universal law. To do this, he or she would test his or her maxims against the moral law that he or she has legislated. The Principle of Autonomy is, “the principle of every human will as a will universally legislating through all its maxims.”[xiv]

    Kingdom of ends
    Kant believes that the Formula of Autonomy yields another “fruitful concept,” the kingdom of ends. The kingdom of ends is the “systematic union” of all ends in themselves (rational agents) and the ends that they set. All ends that rational agents set have a price and can be exchanged for one another. Ends in themselves, however, have dignity and have no equivalent. In addition to being the basis for the Formula of Autonomy and the kingdom of ends, autonomy itself plays an important role in Kant's moral philosophy. Autonomy is the capacity to be the legislator of the moral law, in other words, to give the moral law to oneself. Autonomy is opposed to heteronomy, which consists of having one's will determined by forces alien to it. Because alien forces could only determine our actions contingently, Kant believes that autonomy is the only basis for a non-contingent moral law. It is in failing to see this distinction that Kant believes his predecessors have failed: their theories have all been heteronomous. At this point Kant has given us a picture of what a universal and necessary law would look like should it exist. However, he has yet to prove that it does exist, or, in other words, that it applies to us. That is the task of Section III.
    第二節
    第二節では、カントはゼロから出発し、一般的な道徳哲学から道徳の形而上学への移行を試みる。カントは、道徳的評価を経験的観察から始めようとする試みを 批判することから『基礎づけ』の第二節を始める。カントは、私たちが自分自身を道徳的に振る舞っていると考えるときでさえ、私たちが純粋に義務に突き動か されているのであって、心情に突き動かされているのではないと断言する。カントは、人間は自分の行動の動機を評価するとき、自分自身を欺くのが非常にうま いと観察している。したがって、個人が自分自身を義務から行動していると信じている状況であっても、単に義務に従って行動しているにすぎず、何らかの偶発 的な欲望に突き動かされている可能性がある。しかし、私たちが自分自身を、道徳が私たちに要求するものにはしばしば及ばないと見ているという事実は、私た ちが道徳律について何らかの機能的概念を持っていることを示している。

    カントは第二節で、理性的な意志についての考察から新しい議論を始める。自然界の万物は法則に従って行動しなければならないが、理性的存在だけが法則の表 象に従って行動する。言い換えれば、理性的な存在だけが、自分の行動を導くために法則や原理を認識し、それを参照する能力を持つ。したがって、理性的な生 き物だけが実践的理性を持つ。理性的な主体が参照する法則や原理は、命令、すなわち意志を必要とする規則を生み出す。例えば、ある人がアルティメット・フ リスビーで全国大会の出場権を獲得したいと思えば、この目標を達成する方法を教えてくれる規則を認識し、参考にするだろう。これらのルールは、彼が全国大 会への出場資格を得たい限り、従わなければならない命令となる。

    命令形
    命令形には、仮説的な命令形と断定的な命令形がある。仮言的命令は、エージェントが偶発的な目的(欲求や傾斜に基づく目的)を採用するときに従わなければ ならない規則を提供する。例えば、アイスクリームが欲しければ、アイスクリーム屋に行くか、自分でアイスクリームを作るべきである。ただし、この命令文が 適用されるのは、私がアイスクリームを食べたい場合だけであることに注意しよう。アイスクリームに興味がなければ、この命令文は適用されない。

    カントは、仮定の命令には2つのタイプがあると仮定している。熟達の規則は、私たちが設定した特定の目的によって決定され、その特定の目的を達成するため に何が必要かを教えてくれる。しかし、カントは、私たち全員が共有する一つの目的、すなわち私たち自身の幸福があることを観察している。残念ながら、何が 私たちを幸福にするのか、あるいは幸福にすることを達成する方法を知ることは、不可能ではないにせよ、困難である。したがって、カントは、私たちが持つこ とができるのはせいぜい慎重さの助言であり、明白な規則とは対照的であると主張する。

    範疇的命令 自然の法則
    主な記事 カテゴリー的命令
    道徳律が存在するとすれば、それは普遍的かつ必然的に適用されなければならない。したがって、道徳律は、ある特定の目的を採用した場合にのみ適用される仮 言的命令では決して成り立たない。むしろ、道徳律に関連する命令は、定言的命令でなければならない。範疇的命令は、人がどのようなさまざまな目的を持って いようとも、すべての理性的行為者に適用される。それを見つけることができれば、定言命法は道徳律を提供してくれるだろう。

    定言命法はどのようなものだろうか。私たちは、定言命法が、人々が自分自身に行動規範を与えるために採用する特定の目的に基づくものであってはならないこ とを知っている。つまり、定言命法は法という概念そのものに基づくものでなければならない。法(または命令)は、定義上、普遍的に適用される。この観察か ら、カントは定言命法を導き出した。定言命法は、道徳的行為者が、その意志の原理が普遍的な法則となりうるような方法でのみ行動することを要求するもので ある[ix]。定言命法は、提案された極意のテストであり、それ自体で義務のリストを生成するものではない。定言命法は道徳の最高原理に関するカントの一 般的な声明であるが、カントはこの一般的な声明について3つの異なる定式化を提供している。

    普遍的自然法則の定式化
    最初の定式化は、ある行為が道徳的に許されるのは、すべての主体が2種類の矛盾のいずれかを生じることなく同じ行動原理を採用しうる場合だけであるとす る。これは普遍的自然法則の公式と呼ばれ、「自分の行為の極意が自分の意志によって普遍的自然法則になるかのように行動すべきである」[ix]と述べてい る。

    観念の矛盾
    第一に、自分の提案した格言が普遍化された世界では不可能になるというシナリオに遭遇する可能性がある。例えば、お金に困っている人が、お金を返すという 虚偽の約束をして融資を受けることを自分の最大公約数にしているとする。もしすべての人がこの原則に従えば、他人が約束をしたときに誰も信用しなくなり、 約束をするという制度は破壊されてしまうだろう。しかし、借金をするために虚偽の約束をするという原則は、約束という制度そのものに依存しており、この原 則を普遍化すると、約束という制度が破壊されてしまう。カントはこれを「観念の矛盾」と呼ぶが、それはこの極意が普遍化されることを観念することが不可能 だからである[x]。

    意思における矛盾
    第二に、最大公約数は、カントが「意思における矛盾」[x]と呼ぶものを発生させることによって失敗する可能性がある。この種の矛盾は、普遍化された最大 公約数が、合理的主体が必然的に意思する何かと矛盾するときに生じる。例えば、ある人は他人が困っているときには決して助けないという格言を持つかもしれ ない。しかし、カントは、すべての主体は必然的に他者を助けたいと思うことがあると考える。したがって、代理人が自分の格言が普遍的に採用されるように意 志することは不可能である。もしある最大公約数を普遍化しようとする試みが観念の矛盾をもたらすならば、それはカントが完全義務と呼ぶものに違反する。も しそれが意思の矛盾をもたらすならば、それはカントが不完全義務と呼ぶものに違反する。完全義務とは消極的義務であり、特定の行為や活動(たとえば窃盗) を犯さない、あるいはそれに関与しない義務である。不完全な義務とは積極的な義務であり、特定の行為や活動(例えば、慈善事業に寄付すること)を行う義務 や従事する義務のことである。

    カントは『根拠』において、完全義務は傾斜のために例外を認めることはないと述べており[xi]、これは不完全義務は傾斜のために例外を認めることを意味 すると受け取られることがある。しかし、後の著作(『道徳の形而上学』)においてカントは、不完全な義務は、それを果たすことを選択する方法においてのみ 柔軟性を許容すると示唆している。カントは、人間は自分に対しても他人に対しても完全な義務と不完全な義務を負っていると考えている。

    人間性の公式
    定言命法の第二の定式は「人間性の定式」であり、カントは定言命法の動機づけの根拠を考察することによって、この定式に到達する。道徳律は必要かつ普遍的 であるため、その動機づけの根拠は絶対的な価値を持たなければならない[xii]。そのような絶対的な価値を持つもの、それ自体が目的であるものを見出す ことができたとしたら、それは定言命法の唯一可能な根拠となるであろう。カントは、「人間、そして一般にあらゆる理性的存在は、それ自体が目的として存在 する」[xii]と主張し、それに対応する命令文である「人間性の公式」は、「人間性を、自分自身の人格においてであれ、他者の人格においてであれ、常に 同時に目的として使用し、決して単に手段として使用しない」[xiii]ことを命じている。しかしカントは、人間性の目的を促進する不完全な義務もあると 考える。例えば、金銭を得るという目的を達成するために他人と虚偽の約束をすることは、他人の理性的本性を自分の利己的目的のための単なる手段として扱う ことになる。したがって、これは完全な義務違反である。これとは対照的に、他人を単なる手段として扱わずに慈善事業に寄付しないことは可能であるが、そう することによって人類の目的を達成することができず、不完全な義務に違反することになる。

    自治の公式と目的の王国
    自治の公式」は、「普遍的自然法則の公式」と「人間性の公式」の両方から重要なものを取り入れている。普遍的自然法則の公式は、自分の最大公約数をあたか も客観的な法則であるかのように考えるものであり、一方、人間性の公式はより主観的なものであり、自分が相互作用している相手に対して自分がどのように接 しているかに関わるものである。自律の公式は、前者の客観性と後者の主観性を組み合わせたものであり、自分が普遍的な法則として何を受け入れるかをエー ジェントに問うことを提案するものである。これを行うために、彼または彼女は、彼または彼女が立法した道徳律に対して彼または彼女の最大公約数をテストす るだろう。自律の原理とは、「すべての人間の意志が、そのすべての極限を通じて普遍的に立法する意志であるという原理」である[xiv]。

    目的の王国
    カントは「自律の公式」がもう一つの「実りある概念」である「目的の王国」を生み出すと考えている。諸目的の王国とは、すべての諸目的それ自体(理性的主 体)と、彼らが設定する諸目的との「体系的結合」である。理性的主体が設定するすべての目的には価格があり、互いに交換することができる。しかし、目的そ れ自体には尊厳があり、それに相当するものはない。自律の公式と目的の王国の基礎であるだけでなく、自律自体がカントの道徳哲学において重要な役割を果た している。自律性とは、道徳律の立法者となる能力であり、言い換えれば、道徳律を自分自身に与える能力である。自律は、自分の意志が自分とは異質な力に よって決定されるヘテロノミーと対立する。異質な力は私たちの行動を偶発的にしか決定できないので、カントは自律性こそが非偶発的な道徳律の唯一の根拠で あると考える。カントが先人たちの理論が失敗したと考えるのは、この区別を見抜けなかったことにある。この時点でカントは、普遍的で必要な法則が存在する としたらどのようなものであるかのイメージを私たちに与えた。しかし、それが存在すること、言い換えれば、それが私たちに適用されることを証明するには 至っていない。それが第3節の課題である。
    Section Three
    In section three, Kant argues that we have a free will and are thus morally self-legislating. The fact of freedom means that we are bound by the moral law. In the course of his discussion, Kant establishes two viewpoints from which we can consider ourselves; we can view ourselves:

    as members of the world of appearances, which operates according to the laws of nature; or
    as members of the intellectual world, which is how we view ourselves when we think of ourselves as having free wills and when we think about how to act.
    These two different viewpoints allow Kant to make sense of how we can have free wills, despite the fact that the world of appearances follows laws of nature deterministically. Finally, Kant remarks that whilst he would like to be able to explain how morality ends up motivating us, his theory is unable to do so. This is because the intellectual world—in which morality is grounded—is something that we cannot make positive claims about.

    Freedom and Willing
    Kant opens section III by defining the will as the cause of our actions. According to Kant, having a will is the same thing as being rational, and having a free will means having a will that is not influenced by external forces. This is a negative definition of freedom—it tells us that freedom is freedom from determination by alien forces.

    However, Kant also provides a positive definition of freedom: a free will, Kant argues, gives itself a law—it sets its own ends, and has a special causal power to bring them about. A free will is one that has the power to bring about its own actions in a way that is distinct from the way that normal laws of nature cause things to happen. According to Kant, we need laws to be able to act. An action not based on some sort of law would be arbitrary and not the sort of thing that we could call the result of willing.

    Because a free will is not merely pushed around by external forces, external forces do not provide laws for a free will. The only source of law for a free will is that will itself. This is Kant's notion of autonomy. Thus, Kant's notion of freedom of the will requires that we are morally self-legislating; that we impose the moral law on ourselves. Kant thinks that the positive understanding of freedom amounts to the same thing as the categorical imperative, and that “a free will and a will under moral laws are one and the same.” This is the key notion that later scholars call the reciprocity thesis, which states that a will is bound by the moral law if and only if it is free. That means that if you know that someone is free, then you know that the moral law applies to them, and vice versa. Kant then asks why we have to follow the principle of morality. Although we all may feel the force of our consciences, Kant, examining phenomena with a philosophical eye, is forced to “admit that no interest impels me to do so.” He says that we clearly do “regard ourselves as free in acting and so to hold ourselves yet subject to certain laws,” but wonders how this is possible. He then explains just how it is possible, by appealing to the two perspectives that we can consider ourselves under.

    Gods-eye and human perspective
    According to Kant, human beings cannot know the ultimate structure of reality. Whilst humans experience the world as having three spatial dimensions and as being extended in time, we cannot say anything about how reality ultimately is, from a god's-eye perspective. From this perspective, the world may be nothing like the way it appears to human beings. We cannot get out of our heads and leave our human perspective on the world to know what it is like independently of our own viewpoint; we can only know about how the world appears to us, not about how the world is in itself. Kant calls the world as it appears to us from our point of view the world of sense or of appearances. The world from a god's-eye perspective is the world of things in themselves or the “world of understanding.”

    It is the distinction between these two perspectives that Kant appeals to in explaining how freedom is possible. Insofar as we take ourselves to be exercising our free will, Kant argues, we have to consider ourselves from the perspective of the world of understanding. It is only in the world of understanding that it makes sense to talk of free wills. In the world of appearances, everything is determined by physical laws, and there is no room for a free will to change the course of events. If you consider yourself as part of the world of appearances, then you cannot think of yourself as having a will that brings things about.

    Occupying Two Worlds
    According to Kant, the categorical imperative is possible because, whilst we can be thought of as members of both of these worlds (understanding and appearance), it is the world of understanding that “contains the ground of the world of sense [appearance] and so too of its laws.” What this means is that the world of understanding is more fundamental than, or ‘grounds’, the world of sense. Because of this, the moral law, which clearly applies to the world of understanding, also applies to the world of sense as well, because the world of understanding has priority. To put the point slightly differently: Because the world of understanding is more fundamental and primary, its laws hold for the world of sense too. So the moral law binds us even in the world of appearances.

    According to Kant, we think of ourselves as having free will. This lets us make judgments such as “you ought to have done that thing that you did not do.” Kant argues that this notion of freedom cannot be derived from our experience. We can be sure that this concept of freedom doesn't come from experience because experience itself contradicts it. Our experience is of everything in the sensible world and in the sensible world, everything that happens does so in accord with the laws of nature and there is no room for a free will to influence events.

    So, Kant argues, we are committed to two incompatible positions. From the perspective of practical reason, which is involved when we consider how to act, we have to take ourselves as free. But from the perspective of speculative reason, which is concerned with investigating the nature of the world of appearance, freedom is impossible. So we are committed to freedom on the one hand, and yet on the other hand we are also committed to a world of appearances that is run by laws of nature and has no room for freedom. We cannot give up on either. We cannot avoid taking ourselves as free when we act, and we cannot give up our picture of the world as determined by laws of nature. As Kant puts it, there is a contradiction between freedom and natural necessity. He calls this a dialectic of reason.

    The way Kant suggests that we should deal with this dialectic is through an appeal to the two perspectives we can take on ourselves. This is the same sort of move he made earlier in this section. On one perspective, the perspective of the world of understanding, we are free, whereas from the other, the perspective of the world of the senses or appearances, natural laws determine everything that happens. There is no contradiction because the claim to freedom applies to one world, and the claim of the laws of nature determining everything applies to the other. The claims do not conflict because they have different targets.

    Kant cautions that we cannot feel or intuit this world of the understanding. He also stresses that we are unable to make interesting positive claims about it because we are not able to experience the world of the understanding. Kant argues that we cannot use the notion of the world of the understanding to explain how freedom is possible or how pure reason could have anything to say about practical matters because we simply do not and cannot have a clear enough grasp of the world of the understanding. The notion of an intelligible world does point us towards the idea of a kingdom of ends, which is a useful and important idea. We just have to be careful not to get carried away and make claims that we are not entitled to.
    第三節
    第3節で、カントは私たちには自由意志があり、したがって道徳的に自己決定していると主張する。自由という事実は、私たちが道徳律に縛られていることを意味する。議論の過程で、カントは私たちが自分自身を考えることができる2つの視点を確立する:

    自然の法則にしたがって活動する、見かけの世界の一員として。
    自由意志を持ち、どのように行動すべきかを考えるとき、私たちは自分自身をどのように見るかである。
    この2つの異なる視点によって、カントは、見かけの世界が決定論的な自然法則に従っているにもかかわらず、私たちがどのように自由意志を持つことができる のかを理解することができる。最後にカントは、道徳が最終的にどのように私たちを動機づけるのかを説明できるようになりたいが、彼の理論ではそれができな いと述べている。なぜなら、道徳の根拠となる知的世界は、私たちが肯定的な主張をすることができないものだからである。

    自由と意志
    カントは第III部の冒頭で、意志を私たちの行動の原因として定義している。カントによれば、意志を持つことは理性的であることと同じことであり、自由意 志を持つということは、外部の力に影響されない意志を持つということである。これは自由の否定的定義であり、自由とは異質な力による決定からの自由である と教えている。

    カントは、自由意志はそれ自体に法則性を与えるものであり、自らの目的を定め、それを実現するための特別な因果力を持つものである、と主張する。自由意志 とは、通常の自然法則が物事を引き起こすのとは異なる方法で、自らの行動を引き起こす力を持つものである。カントによれば、私たちが行動するためには法則 が必要である。ある種の法則に基づかない行動は恣意的であり、意志の結果と呼べるようなものではないだろう。

    自由意志は単に外的な力に振り回されるわけではないので、外的な力は自由意志に法則を与えることはない。自由意志にとっての唯一の法則の源は、その意志そ のものなのです。これがカントの自律性の概念である。したがって、カントの意志の自由という概念は、私たちが道徳的に自己決定すること、つまり私たち自身 に道徳的法則を課すことを要求している。カントは、自由の肯定的理解は定言命法と同じものであり、"自由意志と道徳的法則に基づく意志は一体である "と考えている。これは後の学者が互恵性テーゼと呼ぶ重要な概念であり、意志が自由である場合に限り、意志は道徳律に拘束されるというものである。つま り、ある人が自由であることを知れば、道徳律がその人に適用されることを知ることになり、その逆もまた然りなのである。カントは次に、なぜ私たちは道徳の 原則に従わなければならないのかと問う。私たちは皆、良心の力を感じているかもしれないが、哲学的な目で現象を検証するカントは、"いかなる利益も私をそ うさせるものではないと認めざるを得ない"。彼は、私たちは明らかに「自分自身を行動において自由であるとみなし、そのために自分自身をある法則に従わせ る」と言うが、どうしてそんなことが可能なのだろうかと不思議に思う。しかし、どうしてそんなことが可能なのだろうかと彼は考える。

    神の目と人間の目
    カントによれば、人間は現実の究極的な構造を知ることはできない。人間は世界を3つの空間的次元を持ち、時間的に拡張されたものとして経験するが、神の目 から見た現実が最終的にどのようなものであるかについては何も言うことができない。この視点から見れば、世界は人間には何も見えないかもしれない。私たち は、自分の視点から独立して世界がどのようなものであるかを知るために、頭から抜け出して人間的な視点を離れることはできない。私たちが知ることができる のは、私たちに世界がどのように見えるかについてだけであり、世界それ自体がどのようなものであるかについては知ることができない。カントは、私たちの視 点から私たちに見える世界を「感覚の世界」あるいは「見かけの世界」と呼んでいる。神の目から見た世界は、それ自体におけるものの世界、あるいは "理解の世界 "である。

    カントが自由がいかにして可能であるかを説明する際に訴えるのは、この2つの視点の区別である。私たちが自由意志を行使していると考える限り、私たちは理 解世界の視点から自分自身を考えなければならないとカントは主張する。理解の世界でこそ、自由意志について語る意味があるのだ。見かけの世界では、すべて は物理法則によって決定されており、自由意志が出来事の流れを変える余地はない。もしあなたが自分自身を「見かけの世界」の一部だと考えるなら、物事をも たらす意志が自分自身にあるとは考えられない。

    二つの世界を占める
    カントによれば、定言命法が可能なのは、私たちがこれらの世界(理解と外見)の両方の構成員であると考えられる一方で、理解の世界こそが「感覚(外見)の 世界の根拠を含み、その法則の根拠をも含む」からである。これは何を意味するかというと、理解の世界は感覚の世界よりも根源的であり、「根拠」であるとい うことである。このため、道徳律は明らかに理解の世界に適用されるが、理解の世界が優先されるため、感覚の世界にも適用される。少し言い方を変えよう: 理解の世界はより根本的で第一義的であるため、その法則は感覚の世界にも当てはまる。つまり、道徳律は見かけの世界でも私たちを縛るのである。

    カントによれば、私たちは自分自身に自由意志があると考える。自由意志があるからこそ、私たちは "しなかったことをすべきだった "といった判断を下すことができる。カントは、この自由の概念は私たちの経験からは導き出せないと主張する。経験そのものが矛盾しているからだ。私たちの 経験は感性世界のすべてについてであり、感性世界では、起こることはすべて自然の法則に従って起こるのであって、出来事に影響を与える自由意志の入り込む 余地はない。

    つまりカントは、私たちは相容れない2つの立場に置かれていると主張する。私たちがどのように行動すべきかを考えるときに関与する実践理性の観点からは、 私たちは自分自身を自由であると考えなければならない。しかし、見かけの世界の本質を探究する思弁的理性の観点からは、自由は不可能である。だから、私た ちは一方で自由を約束し、他方で自然の法則によって運営され、自由の余地のない見かけの世界をも約束する。私たちはどちらかを諦めることはできない。私た ちが行動するとき、私たち自身を自由であるとみなすことを避けることはできないし、自然の法則によって決定される世界という図式をあきらめることもできな い。カントが言うように、自由と自然の必然の間には矛盾がある。彼はこれを理性の弁証法と呼んでいる。

    この弁証法に対処する方法としてカントが提案するのは、私たち自身が取りうる2つの視点に訴えることである。これは、このセクションで彼が先に行ったのと 同じ種類の動きである。一方の視点、すなわち理解の世界の視点からは、私たちは自由であり、他方の視点、すなわち感覚や外見の世界の視点からは、自然法則 が起こることのすべてを決定する。自由という主張は一方の世界に適用され、自然の法則がすべてを決定するという主張は他方に適用されるので、矛盾はない。 両者の主張は対象が異なるので矛盾しない。

    カントは、私たちはこの理解の世界を感じたり直観したりすることはできないと注意を促している。また、理解世界を経験することができないので、それについ て興味深い肯定的な主張をすることができないと強調する。カントは、理解世界という概念を用いて、自由がいかにして可能であるか、あるいは純粋理性がいか にして実際的な事柄について何かを語ることができるかを説明することはできないと主張する。理解可能な世界という概念は、終わりの王国という考え方に私た ちを導いてくれる。ただ、私たちは調子に乗って、自分たちが主張する資格のない主張をしないように注意しなければならない。
    Critical reaction
    In his book On the Basis of Morality (1840), Arthur Schopenhauer presents a careful analysis of the Groundwork.[citation needed] His criticism is an attempt to prove, among other things, that actions are not moral when they are performed solely from duty. Schopenhauer called Kant's ethical philosophy the weakest point in Kant's philosophical system and specifically targeted the Categorical Imperative, labeling it cold and egoistic. While he publicly called himself a Kantian, and made clear and bold criticisms of Hegelian philosophy, he was quick and unrelenting in his analysis of the inconsistencies throughout Kant's long body of work. Schopenhauer's biggest admirer, Friedrich Nietzsche, also criticizes the Categorical Imperative.[citation needed]
    批判的反応
    アーサー・ショーペンハウアーは、その著書『道徳の基礎』(1840年)の中で、『綱領』について入念な分析を行っている。 彼の批判は、特に、行為が義務感だけで行われる場合には道徳的ではないことを証明しようとするものである。ショーペンハウアーは、カントの倫理哲学をカン トの哲学体系の中で最も弱い点と呼び、特に定言命法を標的にし、それが冷淡でエゴイスティックであると いうレッテルを貼った。彼は自らをカント派と公言し、ヘーゲル哲学を明確かつ大胆に批判する一方で、カントの長い著作の全体を通しての矛盾を素早く容赦な く分析した。ショーペンハウアーの最大の崇拝者であるフリードリヒ・ニーチェも「定言命法」を批判している[要出典]。



    リンク

  • カントの4つの疑問︎▶︎ ▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎
  • 文献

  • ヘーゲル入門 : 精神の冒険 / ピーター・シンガー著 ; 島崎隆訳, 青木書店 , 1995
  • その他の情報


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