sao パチンコ 先バレ無しで当たる



Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871-1945


☆ アンブロワーズ・ポール・トゥーサン・ジュール・ヴァレリー(仏: [pɔl valeʁi]; 1871年10月30日 - 1945年7月20日)は、フランスの詩人、エッセイスト、哲学者。詩と小説(戯曲と対話)に加え、芸術、歴史、文学、音楽、時事問題についての格言にも 関心を寄せた。ヴァレリーは12年にわたりノーベル文学賞にノミネートされた。

(French: [pɔl valeʁi]; 30 October 1871 – 20 July 1945) was a French poet, essayist, and philosopher. In addition to his poetry and fiction (drama and dialogues), his interests included aphorisms on art, history, letters, music, and current events. Valéry was nominated for the Nobel Prize in Literature in 12 different years.[1]
ア ンブロワーズ・ポール・トゥーサン・ジュール・ヴァレリー(仏: [pɔl valeʁi]; 1871年10月30日 - 1945年7月20日)は、フランスの詩人、エッセイスト、哲学者。詩と小説(戯曲と対話)に加え、芸術、歴史、文学、音楽、時事問題についての格言にも 関心を寄せた。ヴァレリーは12年にわたりノーベル文学賞にノミネートされた[1]。
アンブロワズ・ポール・トゥサン・ジュール・ヴァレリー(仏: Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871年10月30日 - 1945年7月20日)は、フランスの詩人、小説家、評論家。多岐にわたる旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。
Valéry was born to a Corsican father and Genoese-Istrian mother in Sète, a town on the Mediterranean coast of the Hérault, but he was raised in Montpellier, a larger urban center close by. After a traditional Roman Catholic education, he studied law at university and then resided in Paris for most of the remainder of his life, where he was, for a while, part of the circle of Stéphane Mallarmé.

In 1900, he married Jeannine Gobillard, a friend of Stéphane Mallarmé's family, who was also a niece of the painter Berthe Morisot. The wedding was a double ceremony in which the bride's cousin, Berthe Morisot's daughter, Julie Manet, married the painter Ernest Rouart.[2] Valéry and Gobillard had three children: Claude, Agathe and François.

Valéry served as a juror with Florence Meyer Blumenthal in awarding the Prix Blumenthal, a grant given between 1919 and 1954 to young French painters, sculptors, decorators, engravers, writers, and musicians.[3]

Though his earliest publications date from his mid-twenties, Valéry did not become a full-time writer until 1920, when the man for whom he worked as private secretary, a former chief executive of the Havas news agency, Edouard Lebey, died of Parkinson's disease. Until then, Valéry had, briefly, earned his living at the Ministry of War before assuming the relatively flexible post as assistant to the increasingly impaired Lebey, a job he held for some twenty years.

After his election to the Académie française in 1925, Valéry became a tireless public speaker and intellectual figure in French society, touring Europe and giving lectures on cultural and social issues as well as assuming a number of official positions eagerly offered to him by an admiring French nation. He represented France on cultural matters at the League of Nations, and he served on several of its committees, including the sub-committee on Arts and Letters of the Committee on Intellectual Cooperation. The English-language collection The Outlook for Intelligence (1989) contains translations of a dozen essays related to these activities.

In 1931, he founded the Collège International de Cannes, a private institution teaching French language and civilization. The Collège is still operating today, offering professional courses for native speakers (for educational certification, law and business) as well as courses for foreign students.

He gave the keynote address at the 1932 German national celebration of the 100th anniversary of the death of Johann Wolfgang Goethe. This was a fitting choice, as Valéry shared Goethe's fascination with science (specifically, biology and optics).

In addition to his activities as a member of the Académie française, he was also a member of the Academy of Sciences of Lisbon, and of the Front national des Ecrivains. In 1937, he was appointed chief executive of what later became the University of Nice. He was the inaugural holder of the Chair of Poetics at the Collège de France.

During World War II, the Vichy regime stripped him of some of these jobs and distinctions because of his quiet refusal to collaborate with Vichy and the German occupation, but Valéry continued, throughout these troubled years, to publish and to be active in French cultural life, especially as a member of the Académie française.

Valéry was nominated for the Nobel Prize in Literature twelve times. It is believed that the Swedish Academy intended to award Valéry the prize in 1945, had he not died that year.[4]

Valéry died in Paris in July 1945. He is buried in the cemetery of his native town, Sète, the same cemetery celebrated in his famous poem Le Cimetière marin.[5]

1900年、ステファン・マラルメの友人で画家ベルト・モリゾの姪でもあるジャンヌ・ゴビラールと結婚。この結婚式は、新婦のいとこであるベルト・モリゾ の娘ジュリー・マネが画家アーネスト・ルアールと結婚する二重式であった[2]: クロード、アガテ、フランソワである。


ヴァレリーが本格的な作家となったのは、彼が私設秘書として働いていたハヴァス通信社の元最高責任者エドゥアール・ルベイがパーキンソン病で亡くなった 1920年以降のことである。それまで、ヴァレリーは陸軍省で一時的に生計を立てていたが、次第に体の不自由になったルベーのアシスタントとして、比較的 融通の利くポストに就いた。

1925年にアカデミー・フランセーズに選出されると、ヴァレリーは精力的に講演活動を行い、フランス社会における知的存在となった。国際連盟ではフラン スを代表して文化問題に取り組み、知的協力委員会の芸術文学小委員会など、いくつかの委員会の委員を務めた。英語版作品集『The Outlook for Intelligence』(1989年)には、これらの活動に関連する12編のエッセイの翻訳が収められている。




第二次世界大戦中、ヴィシー政権は、彼がヴィシーやドイツ占領軍への協力を拒否したことを理由に、これらの職や名誉のいくつかを剥奪したが、ヴァレリー は、この困難な時代を通じて、出版活動を続け、特にアカデミー・フランセーズの会員として、フランスの文化活動に積極的に参加した。


1945年7月、パリで死去。故郷セートの墓地に埋葬されたが、この墓地は彼の有名な詩『Le Cimetière marin』にも登場する墓地である[5]。
1871年、地中海沿岸のエロー県の港町セットに生まれる。父バルテレミーはコルシカ島バスティア生まれの税官吏で、祖先はコルシカ島の船乗り。母ファ ニーはトリエステ生まれで、この町駐在のイタリア領事の令嬢だった。5歳でドミニコ会の学校に入学。7歳でセットの初等学校入学、11歳で高等科に進学。 少年期は読書を好んだ。1884年にモンペリエに移住し同地のリセに入学。祖父のような船乗りに憧れたが、父の反対と数学が不得手なために挫折した。また しばしば母方の郷里ジェノヴァでの滞在を楽しんだ。この頃から文学に関心を持ち始め詩を書き始め、また絵画と建築にも興味を持った。1887年3月、父バ ルテレミー死去。

1888年、モンペリエ大学法学部入学。ポーやボードレールの詩に熱中した。それから象徴主義、高踏派の詩人たちを知り、1889年頃、ユイスマンスの 『さかしま』を耽読し、そこに引用されていたヴェルレーヌ、ランボーや、マラルメの未完の詩『エロディヤード』の断片に魅せられる。18歳の時に書いた詩 「夢(Rève)」を兄がマルセイユの雑誌『Revue maritime』誌に送り初めて作品が掲載され、続いて『クーリエ・リーブル』誌に送ったソネット「月の出(Elévation de la lune)」が掲載された。この年、志願兵としてモンペリエ歩兵第122連隊で1年間兵役に就く。

1890年5月、モンペリエ大学創立600年記念祝賀で、パリからやってきた詩人ピエール・ルイスと知り合い親交を深める。ルイスはヴァレリーとの文通の なかでマラルメの『エロディヤード』の詩を30行ほどを書き送り、ヴァレリーを感激させる(1890年9月頃)。12月、ルイスを通してアンドレ・ジッド とも知り合い、終生その友情関係を結ぶ。またこの頃、マラルメに手紙を書き送り、返事をもらっている。1891年頃、詩作が活発になり、ルイスがジッド、 レオン・ブルム、アンリ・ド・レニエなどと同人誌『ラ・コンク』を発行する際に誘いを受け、創刊号に「ナルシス語る(Narcisse parle)」を投稿する。 他に『エルミタージ』『ラ・シランクス』誌からも求められて詩や論文を寄稿。「ナルシス語る」は日刊紙『デバ』で激賞され、ルイス、ジッドと並んで「最も 才能豊かな三人の青年作家」とも評されるようになった。[1] 大学を卒業すると文学で身を立てようとパリに出て、ルイスの誘いでマラルメの毎週火曜の集まりに参加する。

1892年9月から11月、母方の親戚の住むジェノヴァに滞在した。こ の頃詩人としての才能を疑い、文学的な営みに対して激しい嫌悪を抱くに至ったヴァレリーは次第に文学から遠ざかった。そして片思いの恋慕など、雑多な思考 を切り捨て、知性のみを崇拝することを決意した。この決意はジェノバ滞在中の記録的な嵐があった晩と同時期とされる為、「ジェノバの夜」と呼ばれている。 そして1894年から『カイエ』(手帖)と呼ばれる公表を前提としない思索の記録をつづり始め、その量は膨大な量(およそ2万6千ページ)となった。 1895年に評論『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』を発表、1896年に小説『テスト氏との夜会』を発表の後、『カイエ』の活動を基軸とした20年 に及ぶ文学的沈黙期に入る。

1896年にロンドンに滞在した際に、マラルメから紹介されていた詩人のウィリアム・ヘンリーと会い、その主催している雑誌『ザ・ニュー・レヴュー』に 載ったドイツ産業のイギリス(大英帝国)への圧迫に関する論文について、哲学的結論をフランス語で書いて欲しいと依頼され、当時「方法 (méthode)」について関心を持っていたことから、「ドイツ的制覇(La Conquête allemande)」を執筆し、1897年に掲載された。これは1915年にフランスの雑誌に再録され、1924年に「方法的制覇(Une Conquête méthodique)」と改題されて刊行された。この論文では、ドイツ、イタリア、日本などの後発の国家の繁栄の方法について述べており、のちの枢軸国を示唆していたとも言われる[2]。

ユイスマンスの勧めで1897年から1900年まで陸軍省砲兵隊に勤務。1898年にはマラルメの死に大きな悲しみを抱いた。1900年に女流画家ベル ト・モリゾの姪ジャニ・ゴビヤールと結婚し、ベルトの一人娘ジュリー・マネらが暮らすパッシー(パリ16区)の同一建物に亡くなる1945年まで居住し た。またアヴァス通信社のエドワール・ルベー社長の私設秘書となり生計を立てるようになる。

1913年にジッドに請われて旧作の詩をまとめるかたわらで、「若きパルク」その後いくつかの詩を書き、1917年4月「若きパルク」をNRF誌上で発表 し、一躍名声を勝ち得る。また「海辺の墓地(Le Cimetière marin)」では当時十二音綴(アレクサンドラン)に比べて人気の下がっていた「十綴音(デカシラーブ)」を用いたり、各節6行という詩型を用いたりし ており、1920年にNRFより刊行されて高い評価を得た。1921年には『コネッサンス』誌で現代七大詩人に選出。


fr:Paule Gobillard画「ポール・ヴァレリー夫人と息子クロード(1910年)
1919年にロンドンの週刊誌『アシニーアム』誌に「第一の手紙(The spiritual crisis)」及び「第二の手紙(The intellectual crisis)」と題する、ヨーロッパの精神史について英文で発表。このフランス語原文が『NRF』誌巻頭に掲載された際に「精神の危機(La Cries de l’Esprit)」の表題が付けられた。1922年11月15日にチューリッヒ大学で行われた「精神の危機」と題された講演は有名となり、1924年に 「精神の危機」が評論集『ヴァリエテ Ⅰ』に収録された際に、講演の抜粋が「付記(あるいはヨーロッパ人)(Note(ou L’EUROPEEN))」として組み込まれた。このチューリッヒでヴァレリーはリルケと会うことを期待していたが、リルケの金策の都合でかなわず、ヴァ レリーに果物籠を差し入れをした。[2]

詩作『ユウパリノス』(1921年)『魅惑』(1922年)で名声は外国にまで広がり、また1922年に雇い主のルベーが死去し、文人としての生活に入っ た。1923年にイギリス、ベルギー、スペイン、イタリアに招かれて講演を行う。その後もヨーロッパ各地の講演に招かれ、多くの発表した文集が刊行、翻訳 された。1924年にアナトール・フランスの死去により後任としてフランス・ペンクラブの会長となり、翌年にはアカデミー・フランセーズ会員に選出され る。

1928年、ジュネーブでの国際連盟知的協力会議の議長を務める。中国の作家盛成が1928年にパリで「我が母」原稿を書いた時には、ヴァレリーが序文 (のち「東洋と西洋」)を書いて出版社を紹介した[2]。1930年、パリで開催されたギリシャ独立100年祭でギリシャから勳章を贈られる。1931 年、パリで開催された国際ペンクラブ大会議長を務め、またオペラ座にてアルテュール・オネゲル作曲の「アンフィオン(Amphion)」がルビンシュタイ ン・バレエ団により上演された。1933年、地中海中央研究所所長就任、知的協力委員会にてヨーロッパ研究連盟設立の常任議長に選ばれる。1934年、ド ラマ「セミラミス(Sémiramis)」がオペラ座で上演。

1936年コレージュ・ド・フランス教授に選出され、翌年から詩学講座 を担当する。数多くの執筆依頼や講演をこなし、フランスの代表的知性と謳われ、第三共和政の詩人としてその名を確固たるものしていく。第二次世界大戦開戦 で南仏に逃れたが、1940年秋からドイツ軍占領後のヴィシー政権下のパリに戻り、最後の著作『わがファウスト』の執筆、コレージュ・ド・フランスでの講 義を続けるが、政権には批判的であり、地中海中央研究所所長を解任される。1942年には『邪念その他』の用紙配給をドイツ軍に一時差し止められた。 1943年には文学者愛国戦線に参加、また自身の水彩画展を開く。パリ解放後の1945年に地中海中央研究所所長再任


神々の静寂の上に 長く視線を投げて
おお 思索の後の心地よいこの返礼

The great silence
Valéry is best known as a poet, and he is sometimes considered to be the last of the French symbolists. However, he published fewer than a hundred poems, and none of them drew much attention. On the night of 4 October 1892, during a heavy storm, Paul Valéry underwent an existential crisis, an event that made a huge impact on his writing career. Eventually, around 1898, he quit writing altogether, publishing not a word for nearly twenty years. This hiatus was in part due to the death of his mentor, Stéphane Mallarmé. When, in 1917, he finally broke his 'great silence' with the publication of La Jeune Parque, he was forty-six years of age.[6]

La Jeune Parque
This obscure, but sublimely musical, masterpiece, of 512 alexandrine lines in rhyming couplets, had taken him four years to complete, and it immediately secured his fame. With "Le Cimetière marin" and "L'Ébauche d'un serpent," it is often considered one of the greatest French poems of the twentieth century.

The title was chosen late in the poem's gestation; it refers to the youngest of the three Parcae (the minor Roman deities also called The Fates), though for some readers the connection with that mythological figure is tenuous and problematic.

The poem is written in the first person, and is the soliloquy of a young woman contemplating life and death, engagement and withdrawal, love and estrangement, in a setting dominated by the sea, the sky, stars, rocky cliffs, and the rising sun. However, it is also possible to read the poem as an allegory on the way fate moves human affairs or as an attempt to comprehend the horrific violence in Europe at the time of the poem's composition. The poem is not about World War I, but it does try to address the relationships between destruction and beauty, and, in this sense, it resonates with ancient Greek meditations on these matters, especially in the plays of Sophocles and Aeschylus. There are, therefore, evident links with le Cimetière marin, which is also a seaside meditation on comparably large themes.

Other works
Before la Jeune Parque, Valéry's only publications of note were dialogues, articles, some poems, and a study of Leonardo da Vinci. In 1920 and 1922, he published two slim collections of verses. The first, Album des vers anciens (Album of old verses), was a revision of early but beautifully wrought smaller poems, some of which had been published individually before 1900. The second, Charmes (from the Latin carmina, meaning "songs" and also "incantations"), further confirmed his reputation as a major French poet. The collection includes le Cimetière marin, and many smaller poems with diverse structures.

Valéry's technique is quite orthodox in its essentials. His verse rhymes and scans in conventional ways, and it has much in common with the work of Mallarmé. His poem, Palme, inspired James Merrill's celebrated 1974 poem Lost in Translation, and his cerebral lyricism also influenced the American poet, Edgar Bowers.

Prose works
Valéry described his “true oeuvre” to be prose, and he filled more than 28,000 notebook pages over his lifetime.[7] His far more ample prose writings, peppered with many aphorisms and bons mots, reveal a skeptical outlook on human nature, verging on the cynical. His view of state power was broadly liberal insofar as he believed that state power and infringements on the individual should be severely limited.[8] Although he had flirted with nationalist ideas during the 1890s, he moved away from them by 1899, and believed that European culture owed its greatness to the ethnic diversity and universalism of the Roman Empire.[9] He denounced the myth of "racial purity" and argued that such purity, if it existed, would only lead to stagnation—thus the mixing of races was necessary for progress and cultural development.[10] In "America as a Projection of the European Mind", Valéry remarked that whenever he despaired about Europe's situation, he could "restore some degree of hope only by thinking of the New World" and mused on the "happy variations" which could result from European "aesthetic ideas filtering into the powerful character of native Mexican art."[11]

Raymond Poincaré, Louis de Broglie, André Gide, Henri Bergson, and Albert Einstein[12] all respected Valéry's thinking and became friendly correspondents. Valéry was often asked to write articles on topics not of his choosing; the resulting intellectual journalism was collected in five volumes titled Variétés.

The notebooks
Valéry's most striking achievement is perhaps his monumental intellectual diary, called the Cahiers (Notebooks). Early every morning of his adult life, he contributed something to the Cahiers, prompting him to write: "Having dedicated those hours to the life of the mind, I thereby earn the right to be stupid for the rest of the day."[citation needed]

The subjects of his Cahiers entries often were, surprisingly, reflections on science and mathematics. In fact, arcane topics in these domains appear to have commanded far more of his considered attention than his celebrated poetry. The Cahiers also contain the first drafts of many aphorisms he later included in his books. To date, the Cahiers have been published in their entirety only as photostatic reproductions, and only since 1980 have they begun to receive scholarly scrutiny. The Cahiers have been translated into English in five volumes published by Peter Lang with the title Cahiers/Notebooks.

In recent decades Valéry's thought has been considered a touchstone in the field of constructivist epistemology, as noted, for instance, by Jean-Louis Le Moigne in his description of constructivist history.[13]
ヴァレリーは詩人として最もよく知られており、フランス象徴主義の最後の一人と見なされることもある。しかし、彼が発表した詩は100篇にも満たず、その どれもが注目を集めることはなかった。1892年10月4日の夜、大嵐の中、ポール・ヴァレリーは実存的危機に陥り、この出来事は彼の作家活動に大きな影 響を与えた。結局、1898年頃、彼は執筆活動を完全にやめ、20年近く一字も発表しなかった。この中断は、彼の師であったステファン・マラルメの死も一 因であった。1917年に『La Jeune Parque』を出版してようやく「偉大なる沈黙」を破ったとき、彼は46歳になっていた[6]。

512行のアレクサンドルが韻を踏んだ連句で構成された、無名だが崇高な音楽性を持つこの傑作は、完成までに4年の歳月を要し、すぐに彼の名声を確実なも のにした。Le Cimetière marin」、「L'Ébauche d'un serpent」とともに、20世紀フランスの最も偉大な詩のひとつとされている。


この詩は一人称で書かれ、海、空、星、岩の崖、昇る太陽に支配された環境の中で、生と死、婚約と離脱、愛と疎遠について考える若い女性の独り言である。し かし、この詩を、運命が人間の運命を動かしていく様についての寓意として、あるいは詩が作られた当時のヨーロッパの恐ろしい暴力を理解しようとする試みと して読むことも可能である。この詩は第一次世界大戦に関するものではないが、破壊と美の関係を扱おうとしており、その意味で、特にソフォクレスやアイス キュロスの戯曲に見られる、こうした問題に関する古代ギリシャの瞑想と共鳴している。それゆえ、『海辺のシメティエール』(le Cimetière marin)とも明らかなつながりがある。

la Jeune Parque』以前にヴァレリーが出版したものは、対話、論文、いくつかの詩、レオナルド・ダ・ヴィンチについての研究のみである。1920年と1922 年には、2冊のスリムな詩集を出版している。最初の『古い詩のアルバム』(Album des vers anciens)は、初期の、しかし美しく仕上げられた小詩の改作で、そのいくつかは1900年以前に個別に出版されていた。2作目の『Charmes』 (ラテン語で「歌」と「呪文」を意味するcarminaに由来)は、フランスを代表する詩人としての評価をさらに高めた。この作品集には、le Cimetière marinのほか、多様な構造を持つ多くの小詩が収められている。

ヴァレリーの技法は、基本的には極めてオーソドックスである。彼の詩は韻を踏んだり、型にはまった表現をしたりし、マラルメの作品と共通するところが多 い。彼の詩『パルメ』は、ジェイムズ・メリルの1974年の有名な詩『ロスト・イン・トランスレーション』に影響を与え、彼の頭脳的な抒情はアメリカの詩 人エドガー・バウアーズにも影響を与えた。

ヴァレリーは自身の「真の作品」を散文であるとし、生涯で28,000ページ以上のノートを埋め尽くした[7]。多くの格言や警句をちりばめた彼のはるか に豊かな散文からは、シニカルに近い懐疑的な人間観がうかがえる。1890年代にはナショナリスト的な思想にも傾倒していたが、1899年までには距離を 置き、ヨーロッパ文化の偉大さはローマ帝国の民族的多様性と普遍主義に負うところが大きいと考えていた[8]。 [ヴァレリーは『ヨーロッパ人の心の投影としてのアメリカ』の中で、ヨーロッパの状況に絶望するたびに、「新世界のことを考えることによってのみ、ある程 度の希望を回復することができる」と述べており、ヨーロッパの「美的観念がメキシコ土着の芸術の力強い特徴に入り込む」ことによってもたらされる「幸福な バリエーション」について考察していた[11]。

レイモン・ポアンカレ、ルイ・ド・ブロイ、アンドレ・ジイド、アンリ・ベルクソン、アルベルト・アインシュタイン[12]は皆、ヴァレリーの考え方を尊敬 し、親交を深めていった。その結果生まれた知的ジャーナリズムは『Variétés』と題された5巻にまとめられている。

ヴァレリーの最も印象的な業績は、カイエ(ノート)と呼ばれる彼の記念碑的な知的日記であろう。大人になってからも、毎朝早く、彼はカイエに何かを投稿していた: 「その時間を心の生活に捧げたことで、私は一日中愚かである権利を得た」[要出典]。

彼のカイエのエントリーの主題は、驚くべきことに、しばしば科学と数学に関する考察であった。実際、これらの分野の難解な話題は、彼の有名な詩よりもはる かに多くの関心を集めていたようだ。カイエには、後に彼が著書に収録した多くの格言の初稿も収められている。現在に至るまで、カイエの全文は写真による複 製としてしか出版されておらず、1980年以降になってようやく学術的な精査が行われるようになった。カイエ』は、ピーター・ラング社から『カイエ/ノー トブック』というタイトルで5巻に渡って英訳されている。

In other literature
One of three epigraphs in Cormac McCarthy's novel Blood Meridian is from Valéry's Writing at the Yalu River (1895): "Your ideas are terrifying and your hearts are faint. Your acts of pity and cruelty are absurd, committed with no calm, as if they were irresistible. Finally, you fear blood more and more. Blood and time".[14]

In the book "El laberinto de la soledad" from Octavio Paz there are three verses of one of Valéry's poems:

Je pense, sur le bord doré de l’univers
A ce gout de périr qui prend la Pythonisse
En qui mugit l’espoir que le monde finisse.

In popular culture
Oscar-winning Japanese director Hayao Miyazaki's 2013 film The Wind Rises and the Japanese novel of the same name (on which the film was partially based) take their title from Valéry's verse "Le vent se lève... il faut tenter de vivre !" ("The wind rises… We must try to live!") in the poem "Le Cimetière marin" (The Graveyard by the Sea).[15][16] The same quote is used in the closing sentences of Anthony Burgess's 1962 novel The Wanting Seed.
コーマック・マッカーシーの小説『血の子午線』の3つのエピグラフのひとつは、ヴァレリーの『鴨緑江にて書く』(1895年)からの引用である: 「あなたがたの考えは恐ろしく、あなたがたの心は弱っている。憐憫と残酷の行為は不条理であり、冷静さを欠き、抗いがたいかのように行われる。ついには、 ますます血を恐れるようになる。血と時間を」[14]。

オクタビオ・パスの『El laberinto de la soledad』という本の中に、ヴァレリーの詩の一節が3つある:


オスカーを受賞した日本の宮崎駿監督の2013年の映画『風立ちぬ』と同名の小説(映画の一部原作)は、ヴァレリーの詩「Le vent se lève... il faut tenter de vivre ! (この詩は、アンソニー・バージェスが1962年に発表した小説『猟奇的な種』の最後の文章にも使われている。
Selected works
Conte de nuits (1888)
Paradoxe sur l’architecte (1891)
Introduction à la méthode de Léonard de Vinci (1895)
La soirée avec monsieur Teste (1896)
La Jeune Parque (1917)
Album des vers anciens (1920)
Le cimetière marin (1920)
Charmes (1922)
Eupalinos ou l’Architecte (1923)
Variétés I (1924)
La Crise de l'Esprit (1924) Translated into German in 1956 by Herbert Steiner (Die Krise des Geistes)
L'Âme et la Danse (1925)
Variétés II (1930)
Regards sur le monde actuel. (1931)
L'idée fixe (1932)
Moralités (1932)
Variétés III (1936)
Degas, danse, dessin (1936)
Variétes IV (1938)
Mauvaises pensées et autres (1942)
Tel quel (1943)
Variétes V (1944)
Vues (1948)
Œuvres I (1957), édition établie et annotée par Jean Hytier, Bibliothèque de la Pléiade / nrf Gallimard
Œuvres II (1960), édition établie et annotée par Jean Hytier, Bibliothèque de la Pléiade / nrf Gallimard
Prose et Vers (1968)
Cahiers I (1973), édition établie, présentée et annotée par Judith Robinson-Valéry, Bibliothèque de la Pléiade / nrf Gallimard
Cahiers II (1974), édition établie, présentée et annotée par Judith Robinson-Valéry, Bibliothèque de la Pléiade / nrf Gallimard
Cahiers (1894–1914) (1987), édition publiée sous la direction de Nicole Celeyrette-Pietri et Judith Robinson-Valéry avec la collaboration de Jean Celeyrette, Maria Teresa Giaveri, Paul Gifford, Jeannine Jallat, Bernard Lacorre, Huguette Laurenti, Florence de Lussy, Robert Pickering, Régine Pietra et Jürgen Schmidt-Radefeldt, tomes I-IX, Collection blanche, Gallimard
In English translation:

1964. Selected Writings of Paul Valery. New Directions.
1968. Sketch of a Serpent. R. A. Christmas, trans. Dialogue. Second version printed in Christmas's collection of his own work, Leaves of Sass (2019).
1975. Collected Works of Paul Valéry. Princeton University Press.
1977. Paul Valery: An Anthology. James Lawler, ed. Bollingen (Princeton Univ. Press).
1989. The Outlook for Intelligence. Denise Foliot and Jackson Mathews, trans. Bollingen (Princeton Univ. Press).
The crisis of the mind (1919)
2000. Cahiers/Notebooks. Volume I. Editor-in-chief: Brian Stimpson. Associate editors Paul Gifford, Robert Pickering. Translated by Paul Gifford. Frankfurt am Main: Peter Lang.
2020. The Idea of Perfection: The Poetry and Prose of Paul Valéry; A Bilingual Edition. Trans. Nathaniel Rudavsky-Brody (Farrar, Straus and Giroux).

L’Académie française lui décerne le prix Louis Barthou en 1942 pour l'ensemble de son œuvre

Ouvrages publiés de son vivant
Introduction à la méthode de Léonard de Vinci (1895)
La Soirée avec monsieur Teste (1896)
Essai d'une conquête méthodique (1897)
La Jeune Parque (1917)
La Crise de l’esprit (1919)
Le Cimetière marin (1920)
Album de vers anciens (1920)
Eupalinos ou l'Architecte (1921)
Charmes (1922)
L'Âme et la Danse (1923), illustrations de Joseph Bernard
Variété I (1924)
Propos sur l'intelligence (1925)
Monsieur Teste (1926)
Rhumbs (Notes et autres) (1926), Paris, Le Divan
Durtal ou les Points d'une conversion (1927)
Lettre à Madame C... (1928)
"La conquête de l'ubiquité" (1928)
Charmes commentés par Alain (1929)33
Variété II (1930)
Regards sur le monde actuel (1931)
Amphion (1931)
Pièces sur l'art (1931)
L'Idée fixe ou Deux Hommes à la mer (1932)
Discours en l'honneur de Goethe (1932)
Sémiramis (1934)
Notion générale de l’art (1935) en ligne [archive]
Variété III (1936)
La jeune Parque commentée par Alain (1936)34
Degas, Danse, Dessin (1936)
Les Merveilles de la mer, avec Abel Bonnard (1937)
Discours aux chirurgiens (1938)
Variété IV (1938)
Philosophie de la danse (1939)
Mélange (1941)
Mauvaises Pensées et autres (1942)
Tel quel (1941, puis 1943) (Cahier B 1910; Moralités; Littérature et Choses tues)
Dialogue de l'arbre (1943)
Variété V (1944)
Ouvrages posthumes
Mon Faust (1946)
L'Ange (1947)
Vues (1948)
Histoires brisées (1950)
Lettres à quelques-uns (1952)
Œuvres I (1957)
Une chambre conjecturale (1981)
Les Principes d'anarchie pure et appliquée (1984)
Alphabet (1999)
Cahier 3 – 1943 (Fragments) (2002)
Corona et Coronilla (2008)
Cahier de Cette (2009)
Lettres à Jean Voilier. Choix de lettres 1937-1945 (2014)
Poésies (2016)
Inspirations méditerranéennes (2020)
Le Yalou, suivi de Orient et Occident (2020)
Cours de poétique, Le corps et l'esprit 1937-1940 (Tome I) et Le Langage, la société, l'histoire 1940-1945 (Tome 2) (2023)
Sur les autres projets Wikimedia :

Paul Valéry, sur Wikisource
Le Bilan de l'intelligence, Paris, Allia, 2011, 64 p. (ISBN 978-2-84485-375-2)
Monsieur Teste, Paris, Allia, 2016, 144 p. (ISBN 979-10-304-0456-2)
Philosophie de la danse, Paris, Allia, 2015, 48 p. (ISBN 978-2-84485-946-4)
Gallimard, coll. « Pléiade »
Cahiers, t. I : 1552 p. ; t. II : 1776 p.
Œuvres, t. I : Poésies, 1872 p. ; t. II : Monsieur Teste, Dialogues…, 1728 p.
Gallimard, coll. « Blanche ».
Édition intégrale des Cahiers, 1894-1914 (13 volumes, 1987-2016). Ces volumes reproduisent un texte plus riche que celui repris par la collection de la « Pléiade ».
La NRF a publié la correspondance d'André Gide et Paul Valéry. On y découvre un Gide intimidé par Valéry, très différent de celui révélé par sa correspondance avec Roger Martin du Gard (également chez cet éditeur). Valéry se retrouve en partie à jouer ce rôle où Gide semble vouloir le cantonner, mais ses lettres montrent un côté humain que son œuvre en prose ne laisse pas paraître tandis que sa poésie le masque sous les métaphores[réf. nécessaire].
La Rivista "Commerce" e Marguerite Caetani, IV, Correspondance française. Paul Valéry, Léon-Paul Fargue, Valery Larbaud. Édition présentée et annotée par Sophie Levie et Ève Rabaté, Roma, Edizioni di Storia e Letteratura, 2017.
Pour célébrer son œuvre, chaque année la ville de Sète accueille d’éminents spécialistes ou héritiers du poète, français et étrangers, réunis par Maïthé Vallès-Bled, avec le soutien de l’Académie française. Les Éditions Fata Morgana, en collaboration avec le Musée Paul Valéry, publient les volumes où sont rassemblées les réflexions des intervenants de ces Journées Paul Valéry.


詩人としてはマラルメに傾倒し、ボードレール、ジョゼ・マリア・ド・エレディア、ヴェルレーヌ、ランボーに多くを学び、音楽性に才能を示したが、古典的伝 統的形式により詩作を行い[6]、象徴主義の詩人とはみなされておらず、「(象徴派の)複雑さからヴァレリイは綺麗に洗はれている」「ヴァレリイの世界は 象徴派のそれのように平易ではない」(石川淳[7])とも評される。詩論においてはマラルメの実験の理論化を試み、近代詩学を創設するものとも言われる [6]。

『若きパルク』La Jeune Parque 1917年
『海辺の墓地』Le Cimetière marin 1920年
『舊(旧)詩帖』Album des vers anciens 1920年
『魅惑』Charmes 1922年
『カイエ』『文学』などのアフォリズム集、『ヴァリエテ』は、各種時評・講演筆記 他の小文で編集され5冊刊行。
『カイエ B』Cahier B 1910年
『テスト氏との一夜』La Soirée avec monsieur Teste 1919年
『ダ・ヴィンチ論』Introduction à la méthode de Léonard de Vinci 1919年
『魂とダンス』L’Âme et la danse 1923年
『ヴァリエテ』Variété 1924年
『ロンブ』Rhumbs 1925年
『文学』La Littérature 1929年
『ヴァリエテ Ⅱ』Variété II 1929年
『モラリテ』Moralités 1931年
『現代世界の考察』Regards sur le monde actuel 1931年、文明批評
『固定観念』L’Idée fixe 1932年
『ヴァリエテ Ⅲ』Variété III 1936年
『ドガ・ダンス・デッサン』Degas, danse, dessin 1936年
『象徴主義の存在』Existance du Symbolisme 1938年
『ヴァリエテ Ⅳ』Variété IV 1938年
『メランジュ』Mélange 1939年
『テル・ケル』Tel quel 1941年
『邪念その他』Mauvaises pensées et autres 1942年
『ヴァリエテ Ⅴ』Variété V 1944年
『わがファウスト』Mon Faust 1946年、最晩年の戯曲作品
『レオナルド・ダ・ヴィンチ論 全三篇』(恒川邦夫・今井勉訳、平凡社、2013年)
『精神の危機 他十五篇』(恒川邦夫訳、岩波文庫、2010年)
『ヴァリエテ Ⅰ~Ⅴ』 (1924年 - 1944年)、ヴァレリーの代表作で評論集
『エウパリノス』 (1921年)、プラトンの対話形式を用いた、建築、音楽評論。
『ドガ ダンス デッサン』(1936年)、(清水徹訳、筑摩書房、2006年)[11]
『ドガ ダンス デッサン』(塚本昌則訳、岩波文庫、2021年)
『現代世界文學全集25 若きパルク・我がファウスト ヴァレリイ』新潮社、1955年
『ヴァリエテ』人文書院 2巻組、1966年(全訳版・限定1800部)。鈴木信太郎・佐藤正彰 編
『ヴァレリー全集』(増補版 全12巻・補巻2)[12]筑摩書房、1977年 - 1979年
『ヴァレリー全集 カイエ篇』(全9巻)筑摩書房、1980年 - 1983年 - ※年代順ではなく、テーマ別集成の抜粋版。
『ジッド=ヴァレリー往復書簡』第1巻 1890年 - 1896年/第2巻 1897年 - 1942年、二宮正之編訳、筑摩書房、1986年
『ヴァレリー集成』(全6巻)筑摩書房、2011年2月 - 2012年7月 - テーマ別集成での新訳。
Ⅰ テスト氏と〈物語〉 (恒川邦夫 編訳)
Ⅱ 〈夢〉の幾何学 (塚本昌則 編訳)
Ⅲ 〈詩学〉の探究 (田上竜也・森本淳生 編訳)
Ⅳ 精神の〈哲学〉 (山田広昭 編訳)
Ⅴ 〈芸術〉の肖像 (今井勉・中村俊直 編訳)
Ⅵ 〈友愛〉と対話 (恒川邦夫・松田浩則 編訳)
『三声書簡 1888-1890』松田浩則・山田広昭・塚本昌則・森本淳生 訳、水声社、2016年 - ジッド、ピエール・ルイスを交えた三者の189通の往復書簡
^ 『現代世界文學全集25』(佐藤正彰「解説」)
^ a b c 恒川邦夫「改題・訳注」(『精神の危機 他十五篇』岩波文庫、2010年)
^ a b 鈴木信太郎訳『ヴァレリー詩集』岩波文庫 1968年
^ Nomination Database The Nomination Database for the Nobel Prize in Literature, 1901-1950
^ 堀口大學訳『ヴァレリー文学論』角川文庫 1955年。訳者あとがき
^ a b 『ヴァレリー詩集』岩波文庫 1968年(佐藤正彰編「ヴァレリー」)
^ 石川淳『文學大概』中公文庫 1976年(「ヴァレリイ」)
^ 旧訳は『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』(筑摩叢書、1975年)、菅野昭正、佐藤正彰、清水徹、村松剛訳
^ ヴァレリー論は『私の「本の世界」 中井久夫コレクション』に収録(ちくま学芸文庫、2013年)
^ 最終巻「ヴァリエテ Ⅴ」は、『私の見るところ』(佐藤正彰・寺田透訳、筑摩叢書、1966年)
^ 旧訳版は吉田健一訳 『ドガに就て』 筑摩書房、1977年。初訳は「精神の政治学」も含め戦前刊
^ 筑摩書房『ポオル・ヴァレリイ全集』は、1942年から1947年、1950年から1951年にかけ、二度にわたり未完結で途絶。
『ヴァレリー全集』は三度目にして、初版全12巻で1967年から1968年5月に刊、一旦完結、『補巻』が1971年10月に刊行。1973年から 1974年に「新装版」全13冊が刊。再び装丁を改めた「増補版」が1977年から1979年に『補巻1』を加え全14冊(旧版『補巻』は、増補版では 『補巻2』)が刊行された。
ドニ・ベルトレ 『ポール・ヴァレリー 1871-1945』 松田浩則訳
清水徹 『ヴァレリーの肖像』 筑摩書房、2004年
清水徹 『ヴァレリー 知性と感性の相克』 岩波新書、2010年
山田直 『ヴァレリー 人と思想』 清水書院、1991年、新装版2016年
ロビンソン・ヴァレリー編 『科学者たちのポール・ヴァレリー』 紀伊国屋書店、1996年
菅野昭正・恒川邦夫・松田浩則・塚本昌則訳 - 13名の科学者による論文集。第32回日本翻訳出版文化賞受賞
三浦信孝・塚本昌則編 『ヴァレリーにおける詩と芸術』 水声社、2018年
ミシェル・ジャルティ『評伝 ポール・ヴァレリー』3巻組、恒川邦夫監訳、水声社、2023年
恒川邦夫・塚本昌則 訳・解説 『ポール・ヴァレリー[アガート]訳・注解・論考』 筑摩書房、1994年 - 遺稿の論考
恒川邦夫 訳・解説 『純粋および応用アナーキー原理』 筑摩叢書、1986年 - ※1936年-1938年の遺稿集
田上竜也・森本淳生編訳 『未完のヴァレリー 草稿と解説』 平凡社、2004年 - 文学的沈黙期の遺稿集
『世界の名著66 アラン ヴァレリー』 中央公論社・中公バックス、1980年。解説担当は河盛好蔵
, nom de plume d'Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, est un écrivain, poète et philosophe français né le 30 octobre 18713 à Sète4 (Hérault) et mort le 20 juillet 1945 à Paris.

Il effectue un début de carrière dans l'ombre, secrétaire particulier d'Edouard Lebey, fonction qui lui laisse le loisir de l'étude, la recherche et des rencontres avec le milieu artistique et littéraire de l'époque. Ce n'est qu'au sortir de la première guerre mondiale, à l'abord de la cinquantaine, que sa célébrité éclate en tant que poète avec la publication de La Jeune Parque. Il devient dès lors immensément célèbre en tant qu'intellectuel et homme de lettres.

Sollicité de toute part pour donner des conférences et produire des articles, interlocuteur des plus grands scientifiques et penseurs de l'époque, il devient une sorte de « héros intellectuel » national. Élu à l'Académie française, professeur au collège de France, sa célébrité ne s'éclipse pas jusqu'à sa mort, tout à la fin de la Seconde Guerre mondiale.

彼はエドゥアール・ルベイの私設秘書として、当時の芸術界や文壇の研究、調査、会合に自由に参加できるポジションで、そのキャリアを陰ながらスタートさせ た。詩人としての名声が高まったのは、第一次世界大戦が終わり、彼が50代になってからである。それ以来、彼は知識人、文学者として絶大な名声を得るよう になった。

講演者、作家として、また当時の偉大な科学者や思想家たちとの対話者として大きな需要があり、彼は国民的な「知的英雄」となった。アカデミー・フランセー ズに選出され、コレージュ・ド・フランスの教授となった彼の名声は、第二次世界大戦末期に亡くなるまで衰えることはなかった。
Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry naît en 1871 à Sète d'un père d'origine corse, Barthélemy Valéry, vérificateur principal des douanes, et d'une mère génoise, Fanny Grassi, fille du consul d'Italie Giulio Grassija 1. En 1876, il entre à l’école chez les dominicains à Sète. En 1878, il fait son entrée au collège de Sète et poursuit sa formation, de 1884 à 1888, au lycée de Montpellier5 où il suit des études « maussades et sans grand éclat »lm 1. « Pas assez mathématicien » pour entrer à l'École navale qui l'attirait, il s'oriente vers les beaux-arts et plus spécialement la poésie, admirant celle de Victor Hugo, Théophile Gautier et Charles Baudelairelm 1. Il écrit ses premiers poèmes.

En 1889, il commence des études de droit, interrompues par son service militaire (1889-1890). C'est pendant cette période qu'il fait des rencontres et lectures déterminantes qui vont l'orienter vers la poésie symbolistelm 1. La lecture d'À rebours de Joris-Karl Huysmans lui révèle Stéphane Mallarmé et la mouvance du symbolismelm 1. Cette même année, il écrit plus de cent poèmes et en publie dans la Revue maritime de Marseille. En 1890, c'est surtout sa rencontre avec Pierre Louÿs qui sera déterminante pour l'orientation de sa vie de poète. Ce dernier lui présente André Gide, José-Maria de Heredia et l'introduit dans le cercle étroit de Mallarmé. Paul Valéry restera fidèle à Mallarmé jusqu'à sa mort. Il publie ses premiers textes dans la revue L'Ermitageja 2 et des poèmes dans la revue Le Conque de Pierre Louÿslm 1.
アンブロワーズ・ポール・トゥーサン・ジュール・ヴァレリーは、1871年、セーテで、コルシカ出身の父バルテレミー・ヴァレリー(上級税関検査官)と ジェノヴァ出身の母ファニー・グラッシ(イタリア領事ジュリオ・グラッシヤの娘)の間に生まれた1。1876年、セーテのドミニコ学校に入学。1878 年、セートのコレージュに入学し、1884年から1888年までモンペリエのリセ5で教育を受けるが、「退屈で物足りない」学業であった。海軍兵学校に入 学するほどの数学者ではなかったため、美術、特に詩作に傾倒し、ヴィクトル・ユーゴー、テオフィル・ゴーティエ、シャルル・ボードレールに憧れた1。

1889年、法学を学び始めるが、兵役のため中断される(1889-1890年)。ジョリス=カール・ユイスマンスの『À rebours』を読み、ステファン・マラルメと象徴主義運動に出会う。1890年、彼の詩人としての人生の方向性を決定づけたのは、何よりもピエール・ ルイスとの出会いだった。ルイはアンドレ・ジドとホセ=マリア・ド・ヘレディアを紹介し、マラルメの側近に彼を引き合わせた。ポール・ヴァレリーは死ぬま でマラルメに忠誠を誓った。批評誌『L'Ermitageja 2』に最初の文章を、ピエール・ルイスルム1世の批評誌『Le Conque』に詩を発表。
Nuit de Gênes
Durant la nuit orageuse du 4 au 5 octobre 1892, alors qu'il est en vacances à Gênes dans la famille de sa mère, il connait ce qu'il décrit comme une grave crise existentielle. Il en sort non seulement résolu à « répudier les idoles » de la littérature, de l'amour et de l'imprécision, mais aussi à consacrer l'essentiel de son existence à ce qu'il nomme « la vie de l'esprit ». Les Cahiers dans lesquels il s'astreint à noter toutes ses réflexions au petit matin en témoignent. « Après quoi », ajoute-t-il en manière de boutade, « ayant consacré ces heures à la vie de l'esprit, je me sens le droit d'être bête le reste de la journée »6. Il oriente son esprit vers de nouvelles valeurs, qu'il estime incompatibles avec la création littéraire : la rigueur et la sincérité de l'esprit, et la connaissance de soilm 1.

Il indique à plusieurs reprises qu'il considère cette nuit passée à Gênes comme sa véritable origine, le début de sa vie mentale.

Plaque au domicile de Paul Valéry entre 1891 et 1899, 12 rue Gay-Lussac (5e arrondissement de Paris).
En 1894[réf. nécessaire], il s'installe à Paris, où il commence à travailler en 1897 comme rédacteur au ministère de la Guerre, et où il se lie avec Paul Léautaud[réf. souhaitée]. Il reste à distance de l'écriture poétique pour se consacrer à la connaissance de soi et du monde.

Il publie quelques texte de jeunesse, notamment Introduction à la méthode de Léonard de Vinci (1895), La Soirée avec monsieur Teste (1896) et un essai à propos de l'économie allemande, dont il prévoit l'expansion (1897)lm 1.
1892年10月4日から5日にかけての嵐の夜、母の家族とジェノヴァで休暇を過ごしていた彼は、深刻な実存的危機を経験した。文学、愛、曖昧さといった 「偶像を否定する」だけでなく、人生の大半を「精神の生活」と呼ばれるものに捧げる決意を固めた。早朝に自分の考えをすべて書き留めたノートがそれを証明 している。「その後」、彼は冗談めかしてこう付け加えた。「この数時間を心の生活に捧げたのだから、残りの一日はバカになる権利があると思う」6。彼は、文学の創作とは相容れないと考えた新しい価値観、すなわち、精神の厳格さと誠実さ、そして土壌の知識1.に心を向けた。



Secrétaire particulier
Depuis 1900 jusqu'en 1922, il est secrétaire particulier d'Édouard Lebey, administrateur de l'agence Havas. Ce « poste de choix » lui laisse énormément de temps libre pour accroître sa connaissance du monde et son expérience. Il s'affaire chaque matin aux petites heures à la rédaction de ses Cahiers, journal intellectuel et psychologique dont l'essentiel ne sera publié qu'après sa mort. Il continuera jusqu'à la fin de ses jours cet exercice matinal, produisant deux-cent-cinquante-sept Cahiers. Malgré ce temps libre, sa production littéraire restera modeste pendant ces vingt ans où il restera selon l'expression de Berne-Joffroy au « cloître de l'intellect »lm 1.

Il essaye de discipliner son esprit et de percer les secrets de l'activité intellectuelle en réétudiant les mathématiqueslm 1. Il pense parfois à publier ses recherches sans jamais s'y résoudre, et imagine un « conte singulier » auquel il voudrait donner le titre de Manuscrit trouvé dans une cervellelm 2. Parfois, il se décourage devant ces énigmes « sans cesse reprises, réobscurcies, redégagées »7.

Lors de l'Affaire Dreyfus, Valéry est anti-dreyfusard, conformément à son nationalisme de jeunesse, qu'il abandonnera8,9. Ainsi, (non sans réflexion, écrira-t-il), donnera-t-il trois francs pour le Monument Henry, une souscription lancée en 1899 en faveur de la veuve de l'accusateur d'Alfred Dreyfus (le nom de Valéry apparaît à la page 175 de ce document).

Madame Paul Valéry et son fils Claude par Paule Gobillard (1910)
En 1900, il épouse Jeannie Claudine Gobillard (1877-1970)10, cousine germaine de Julie Manet (fille de Berthe Morisot et d'Eugène Manet, frère d'Edouard Manet), cette dernière épousant le même jour le peintre Ernest Rouart. Le double mariage est célébré en l'église Saint-Honoré d'Eylau, dans le quartier de Passy, à Paris. Le couple Valéry est logé dans l'immeuble construit par les parents de Julie Manet, dans la rue de Villejust (aujourd'hui, rue Paul-Valéry) dont a hérité la jeune fille, alors qu'elle n'avait pas dix-huit ans (1895). Le couple Valéry-Gobillard aura trois enfants — Claude, Agathe et François — et demeurera lié au couple Rouart-Manet (qui aura trois fils), au point que les deux familles partageront aussi leurs vacances dans la propriété « Le Mesnil », achetée par Berthe Morisot et Eugène Manet (peu avant la mort d'Eugène en 1893) sur les bords de Seine, en aval de Meulan. Julie, unique héritière après le décès de Berthe Morisot en 1895, laissera les portes du Mesnil ouvertes au couple Valéry-Gobillard jusqu'à ce que la mort les sépare11.

Il se rend toujours régulièrement rue de Rome aux « mardis » de Stéphane Mallarmé, rencontres littéraires qui ont lieu au domicile du poète dont il sera l'un des fidèles disciples. Son mariage le rapproche des milieux artistiques et il fréquente également les peintres Edgar Degas et Auguste Renoir.

Alors qu'il est marié et approche de la cinquantaine, au commencement de sa célébrité, il entame, en 1920, une liaison tumultueuse avec la poétesse Catherine Pozzi, alors âgée de trente-huit ans et séparée de son mari Édouard Bourdet. Cette relation durera huit ans et donnera lieu à une importante correspondance, par la suite détruite. La rupture douloureuse provoquera chez sa maîtresse des appréciations peu flatteuses à son encontre comme celle-ci : « Il s’intéressait à l’intelligence, mais pas à l’esprit »12.

1900年から1922年まで、ハヴァス代理店のエドゥアール・ルベイの私設秘書を務める。この "選ばれた地位 "は、世界についての知識と経験を広げるための自由な時間を彼に与えた。毎朝、早い時間に、彼は知的で心理的な日記である『カイエ』の執筆に取りかかっ た。彼はこの朝の運動を生涯続け、257冊のカイエを書き上げた。この自由な時間にもかかわらず、ベルヌ=ジョフロワの言葉を借りれば、「知性の回廊」 lm 1に閉じこもっていた20年間、彼の文学的な成果は控えめなものにとどまった。

彼は数学の研究によって精神を鍛え、知的活動の秘密を突き止めようとしたlm 1。自分の研究を出版しようと考えることもあったが、決心することはなかった。時々、彼はこのような謎に落胆し、その謎は「常に再び取り上げられ、再認識され、再定義される」と表現した7。

ドレフュス事件の最中、ヴァレリーは反ドレフュス主義を唱え、若い頃の ナショナリズムを貫いたが、後にそれを捨てた8,9。そのため、(反省がなかったわけではないが)彼は、アルフレッド・ドレフュスを告発した未亡人のため に1899年に発足した「アンリ記念碑」のために3フランを寄付した(ヴァレリーの名前はこの文書の175ページに掲載されている)

1900年、彼はジュリー・マネ(ベルト・モリゾとウジェーヌ・マネの娘、エドゥアール・マネの弟)の従姉妹で、同じ日に画家のアーネスト・ルアールと結 婚したジーニー・クローディーヌ・ゴビラール(1877年-1970年)10と結婚した。二人の結婚式は、パリのパッシー地区にあるサントノレ・デイロ教 会で執り行われた。ヴァレリー夫妻は、ジュリー・マネの両親がヴィルジュスト通り(現在のポール・ヴァレリー通り)に建てた建物に住み、1895年、まだ 18歳にもなっていなかったマネが相続した。ヴァレリー=ゴビラール夫妻は、クロード、アガテ、フランソワの3人の子供をもうけたが、ルーアール=マネ夫 妻(3人の息子をもうけた)とも親交を深め、ムーランの下流、セーヌ河畔にあるベルト・モリゾとウジェーヌ・マネ(1893年にウジェーヌが亡くなる直 前)が購入した土地「ル・メニル」でも、両家は休暇を共にした。1895年にベルト・モリゾが亡くなった後、唯一の相続人となったジュリーは、ヴァレリー =ゴビラール夫妻のために、死が二人を分かつまで11、メスニルの扉を開けておいた。


1920年、結婚して50歳に近づき、名声を得始めた頃、彼は夫エドゥアール・ブルデと別居中の詩人カトリーヌ・ポッツィ(当時38歳)と激しい情事を始 めた。この関係は8年間続き、膨大な書簡が生まれたが、後に破棄された。この辛い別れをきっかけに、彼の愛人は彼について、「彼は知性には興味があった が、精神には興味がなかった」と不名誉なコメントを残した12。
Retour à la poésie
En 1917, sous l'influence de Gide notamment, il revient à la poésie avec La Jeune Parque, publiée chez Gallimard. Il brise un « long silence » avec ce poème de 512 vers auquel il a consacré quelque quatre années.

En 1912, Gallimard et Gide lui avaient suggéré de publier une réédition de certains de ses premiers poèmes, pour laquelle il devait rédiger une préface poétique d'une trentaine de lignes[réf. souhaitée]. Il commence à retoucher ses anciens vers et décide d'y ajouter un nouveau poème, sorte « d'adieu à ces jeux de l'adolescence »lm 3. Mais il revient sans cesse sur ce poème durant quatre années, et surtout durant la première guerre mondiale, comparant ce processus à « la croissance naturelle d'une fleur artificielle »lm 3. Il développe alors ce que d'aucuns considèrent comme son chef-d'œuvre : le monologue intérieur d'une jeune femme en proie à un combat entre le corps et l'esprit, écrit dans un formalisme digne de son maître Mallarmé.

Le succès de La Jeune Parque est immédiat. Il se remet alors à écrire de la poésie, avec une aisance qui le surprend lui-mêmelm 2. Un autre grand poème suit quelques années plus tard, Le Cimetière marin (1920). Toujours influencé par Stéphane Mallarmé, Paul Valéry y privilégie toujours dans sa poésie la maîtrise formelle sur le sens et l'inspiration : « Mes vers ont le sens qu'on leur prête ». En particulier dans le tercet de la page 96 :

Cette main, sur mes traits qu'elle rêve effleurer
Distraitement docile à quelque fin profonde,
Attend de ma faiblesse une larme qui fonde

Il existe une controverse sur le fait que le verbe utilisé soit fondre ou fonder.

Après la Première Guerre mondiale, il devient une sorte de « poète officiel », immensément célèbre — peu dupe, il s'en amuse — et comblé d'honneurs. En 1920 il publie une sélection de poèmes des années 1890-1893, sous le nom Album des vers anciens. En 1921, un référendum le désigne comme le plus grand poète contemporainlm 2. Toutefois, après la publication en 1922 d'un recueil de ses nouveaux poèmes, Charmes, il arrête toute production poétiquelm 2.
1917年、特にジドの影響を受けて、彼はガリマール社から出版された『La Jeune Parque』で詩作に復帰した。彼はこの512節の詩で「長い沈黙」を破り、4年ほど詩作に没頭した。

1912年、ガリマールとジドは、彼の初期の詩の復刻版を出版することを提案していた。彼は古い詩の手直しを始め、「青春の遊びへの別れ」(lm 3)のような新しい詩を加えることにした。しかし、その後4年間、特に第一次世界大戦の間、彼は何度も何度もこの詩に戻り、その過程を「造花の自然な成 長」に例えた。

La Jeune Parque』の成功はすぐさまもたらされた。その後、彼は自分でも驚くほど簡単に詩を書き始めた2。数年後、もうひとつの偉大な詩『Le Cimetière marin』(1920年)が続く。ステファン・マラルメの影響を受けつつも、ポール・ヴァレリーの詩は依然として、意味やインスピレーションよりも形式 的な熟達を強調している。特に96ページのテルテットに顕著である:



第一次世界大戦後、彼は一種の "桂冠詩人 "となり、絶大な知名度を誇るようになった。1920年、彼は1890年から1893年までの詩のセレクションを『Album des vers anciens』というタイトルで出版した。1921年、国民投票により、彼は現代最高の詩人2位に選ばれた。しかし、1922年に新詩集『シャルム』を 出版した後、詩作活動を休止したm 2。
La gloire
M. Lebey décède en 1922, et Paul Valéry se consacre désormais pleinement à une carrière d'homme de lettres. Les éditeurs le pressent, on lui demande préfaces et essais publiés en série dans des revues, puis dans des recueils, comme la série des Dialogues.

On le sollicite également pour donner des conférences, en France et à l'étranger. Il y est reçu avec grand honneur, par les souverains et chefs d'état, comme des déplacements officiels de personnalités de premier planlm 2. Ces conférences sont également publiées. Il devient alors véritablement une sorte de « héros intellectuel » de la Francelm 2.

Dans les années 1930, Paul Valéry est soutenu financièrement par la princesse Edmond de Polignac et surtout par la comtesse Martine de Béhague, amie proche, qui lui verse un salaire pour s'occuper de sa bibliothèque. Il séjourne régulièrement dans la propriété de la comtesse La Polynésie à Hyères (où il écrit Degas, danse, Dessin), et sur son yacht le Tenax13.

En 1924, il devient président du PEN club français, puis est élu membre de l'Académie française l'année suivante. Dans le discours de réception qu'il prononce le 23 juin 1927, Paul Valéry fait l’éloge d'Anatole France, son prédécesseur, sans prononcer son nom une seule fois14. En effet il ne pardonnait pas à Anatole France de s'être autrefois opposé à la publication de poèmes de Mallarmé.

En 1931, il est promu au rang de commandeur de la Légion d'honneur ; la même année, il prononce le discours de réception de Philippe Pétain à l'Académie française ; en 1932, il entre au conseil des musées nationaux ; en 1933, il est nommé administrateur du Centre universitaire méditerranéen de Nice ; en 1936, il est nommé président de la Commission de synthèse de la coopération culturelle pour l'exposition universelle ; en 1937, on crée pour lui la chaire de poétique au Collège de France ; en 1938, il est élevé à la dignité de grand officier de la Légion d'honneur ; en 1939, enfin, il devient président d'honneur de la SACEM. Il fut par ailleurs membre du comité d'honneur de l'Association du Foyer de l’Abbaye de Royaumont.

Son œuvre véritable, pendant ce temps, continue toujours dans l'ombre, dans l'ombre également sa passion pour la romancière Jean Voilier. La profondeur des réflexions qu'il a émises dans des ouvrages exigeants (Introduction à la méthode de Léonard de Vinci, La Soirée avec monsieur Teste), ses réflexions sur le devenir de la civilisation (Regards sur le monde actuel) et sa vive curiosité intellectuelle en ont fait un interlocuteur privilégié de personnalités telles que Henri Poincaré, Louis de Broglie, Henri Bergson, Auguste Perret, et Albert Einstein.

Il est l'auteur des quatre inscriptions en lettres d'or, spécifiquement commandées, pour les frontons des pavillons monumentaux du Palais de Chaillot.


1930年代、ポール・ヴァレリーは、エドモン・ド・ポリニャック王女、とりわけ親しい友人であったマルティーヌ・ド・ベーグ伯爵夫人から経済的支援を受 け、伯爵夫人から給料をもらって図書館の世話をした。彼はイエールにある伯爵夫人の所有地ラ・ポリネジーに定期的に滞在し(ここで『ドガ、ダンス、デッサ ン』を執筆)、伯爵夫人のヨット、テナックス13号にも乗った。

1924年にはフランスPENクラブの会長に就任し、翌年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出された。1927年6月23日の就任演説で、ポール・ ヴァレリーは前任者アナトール・フランスの名前を一度も出さずに称賛した14。彼は、過去にマラルメの詩の出版に反対したアナトール・フランスを許してい なかった。

1931年、レジオン・ドヌール勲章コマンダーに叙勲され、同年、フィリップ・ペタンをアカデミー・フランセーズに迎える演説を行い、1932年には国立 美術館評議会に加わり、1933年にはニースにある地中海大学センターの館長に任命された; 1936年には万国博覧会文化協力委員会の委員長に任命され、1937年にはコレージュ・ド・フランスの詩学講座を与えられた。1938年にはレジオン・ ドヌール勲章の大勲位を受章し、1939年にはSACEMの名誉会長となった。1939年にはSACEMの名誉会長に就任した。彼はまた、ロワイエ・ド・ ロワイヨン修道院協会の名誉委員会のメンバーでもあった。

一方、彼の本業は、小説家ジャン・ヴォワリエへの情熱と同様に、陰で続いていた。レオナール・ド・ヴィンチの方法序説』、『テステ氏とのソワレ』など、要 求の高い作品に込められた思想の深さ、文明の未来についての考察(Regards sur le monde actuel)、知的好奇心の旺盛さにより、アンリ・ポアンカレ、ルイ・ド・ブロイ、アンリ・ベルクソン、オーギュスト・ペレ、アルベルト・アインシュタ インといった著名人と対談する機会に恵まれた。

Occupation allemande et mort

Plaque 40 rue de Villejust, devenue rue Paul-Valéry (16e arrondissement de Paris), où il meurt.

La tombe de Paul Valéry au cimetière marin de Sète
Sous l'Occupation, Paul Valéry, refusant de collaborer, prononce en sa qualité de secrétaire de l'Académie française l'éloge funèbre du « juif Henri Bergson », considéré comme un « acte de résistance »lm 4. Cette prise de position lui vaut de perdre ce poste, comme celui d’administrateur du Centre universitaire méditerranéen de Nice. En 1942, il dédicace un de ses livres à Hélène Berr, ce qui décide la jeune femme à tenir son journal. Elle sera considérée comme l'« Anne Frank française ». Il continue pendant la guerre son enseignement au collège de France.

Paul Valéry a également été président de l'Union française pour le sauvetage de l'enfance de 1941 à 1945.

Membre du comité national des écrivains, émanation du Front national de la résistance, il meurt le 20 juillet 1945 au 40 rue de Villejust, quelques semaines après la fin de la Seconde Guerre mondiale. Après des funérailles nationales à la demande du général de Gaulle, il est inhumé selon sa volonté à Sète, dans la partie haute de ce cimetière marin qu'il avait célébré dans son poème :

Ce toit tranquille, où marchent des colombes,
Entre les pins palpite, entre les tombes…

Il repose dans le caveau de son grand-père, Giulio Grassi. Les quelques vers en guise d’épitaphe proclament :

Ô récompense après une pensée
Qu’un long regard sur le calme des dieux15.

Son épouse, Jeannie Gobillard, petite-nièce de Berthe Morisot, que Paul Valéry avait épousée en 1900, est morte à Paris le 9 juillet 1970 à l'âge de 93 ans16.


占領時代、ポール・ヴァレリーは協力を拒否し、アカデミー・フランセーズの秘書として、「ユダヤ人アンリ・ベルクソン」の弔辞を述べた。その結果、彼はこ のポストとニース地中海大学センターの管理者のポストを失った。1942年、彼はエレーヌ・ベールに著書の一冊を献呈した。彼女は「フランスのアンネ・フ ランク」として知られるようになった。戦争中もコレージュ・ド・フランスで教鞭を執った。






    Cette section est vide, insuffisamment détaillée ou incomplète. Votre aide est la bienvenue ! Comment faire ?

Il est cité par le critique littéraire Clement Greenberg dans son essai Avant-garde et Kitsch, dans une liste de poètes avant-gardistes dont l'attention se porte sur la création poétique elle-même et sur les « moments de conversion poétique » :

« The attention of poets like Rimbaud, Mallarmé, Valéry, Éluard, Pound, Hart Crane, Stevens, even Rilke and Yeats, appears to be centered on the effort to create poetry and on the "moments" themselves of poetic conversion, rather than on experience to be converted into poetry. Of course, this cannot exclude other preoccupations in their work, for poetry must deal with words, and words must communicate. Certain poets, such as Mallarmé and Valéry are more radical in this respect than others17,18. »

Il est également connu comme traducteur en vers (Les Bucoliques de Virgile) et apprécié pour ses préfaces critiques (Lucien Leuwen de Stendhal, Les Chimères de Nerval, Lettres persanes de Montesquieu).

De son vivant, toutefois, Valéry n’était pas unanimement reconnu comme un poète de premier plan ; certains critiques le considéraient « plus habile aux mondanités érudites qu'à la poésie proprement dite »19. Paul Nizan n’hésitait pas à le qualifier de « haut fonctionnaire de la langue française »20.

Paul Valéry lui-même fit allusion à ces appréciations divergentes : "On sait que les uns n'y voient goutte ; qu'il n'est que trop clair pour les autres, qui le jugent insipide par la simplicité de ce qu'ils Y trouvent, une fois rompues les vaines défenses de l'expression. D'autres encore s'y attachent."21



「ランボー、マラルメ、ヴァレリー、エリュアール、パウンド、ハート・クレイン、スティーヴンス、さらにはリルケやイェーツといった詩人たちの関心は、詩 へと変換される経験よりも、詩を創作する努力や詩的変換の "瞬間 "そのものに集中しているように見える。もちろん、詩は言葉を扱わなければならないし、言葉は伝えなければならないからだ。マラルメやヴァレリーのような ある種の詩人は、この点で他の詩人よりも先鋭的である17,18。



ポール・ヴァレリー自身、このような評価が分かれることに言及している。「私たちは、この詩の中に何も見出せない人もいれば、表現の虚しい防御をいったん 打ち破れば、その中に見出される単純さによって、この詩を無味乾燥なものと判断する人もいる。また、愛着を抱く人もいる」21。
Les Dialogues
Les Dialogues peuvent être cités parmi les chefs-d'œuvre en prose de Valérylm 5. Dans ces œuvres, Valéry emploie une forme dialoguée mettant en scène plusieurs personnages, permettant d'élever et de répondre à des objections, à la manière des Dialogues de Platon. Pour Valéry, c'est une manière particulièrement appropriée pour exprimer une pensée complexelm 5. Cette forme permet également une grande variété de formes, de l'humour à la poésie, permettant à l'auteur de déployer toute la palette de ses talents littéraires. Il y met en scène certaines réflexions et observations qu'il a notées dans ses Cahiers.

On peut citer L'Âme et la danse (1923), Eupalinos (1923), L'Idée fixe22 (1924), Le Dialogue de l'arbre (1943) ainsi que certains fragments de Mon Faust (1945).

Essais et conférences. Variété

Portrait photographique en noir et blanc d'un homme grisonnant, au regard clair, portant une moustache, vu de trois-quarts droit
Paul Valéry par le Studio Harcourt, vers 1938.
Les essais de Valéry traduisent ses inquiétudes sur la pérennité de la civilisation (« Nous autres, civilisations, nous savons maintenant que nous sommes mortelles »), l'avenir des « droits de l'esprit », le rôle de la littérature dans la formation, et la rétroaction du progrès sur l'homme.

Sa série « Variété » (I-V) se compose d'un autre type d'écrits : ceux qui lui ont été commandés et qu'il n'eût sans doute, de son aveu, jamais écrits de lui-même. Ils n'en témoignent pas moins d'une profondeur d'analyse que l'on retrouve aussi dans la série de courts essais sur divers sujets d'actualité du xxe siècle publiée sous le titre : Regards sur le monde actuel.

Le tome V de Variété classe les articles par sujets. Les rubriques sont les suivanteslm 6 :

études littéraires ;
études philosophiques ;
essais quasi politiques ;
théorie poétique et esthétique ;
enseignement ;
mémoires du poète.
Etudes littéraires
Les études littéraires consistent en une vingtaine d'essais concernant divers écrivains et poètes du passé. Il y exprime toute son admiration pour l'art classique tout en exprimant sa propre conception de l'art littéraire et poétique.

Parmi les essais les plus remarquables, on peut citer ceux sur François Villon, Blaise Pascal, Jean Racine, Charles Baudelaire et avant tout Stéphane Mallarmé qu'il a connu intimementlm 6.

Essais quasi politiques
Paul Valéry s'est toujours refusé à tout engagement politique et avait une piètre opinion de la propagande politique (« qui combine sentiments et syllogismes »), incompatible avec son esprit critique. Il se qualifiait volontiers d'anarchistelm 7.

Ses essais politiques consistent principalement dans l'observation de son temps, où il est considéré comme un observateur pertinent et clairvoyant, voire prophétique, et la critique de la discipline historiquelm 8.

Les Cahiers et sa correspondance
Les notes prises par Paul Valéry pendant près de cinquante ans ont été conservées. Elles couvrent plus de 30 000 pages dans 261 cahiers. Une première édition en fac-similé a été publiée en 1957-61 par le CNRS23 et est consultable à la bibliothèque du Centre Georges Pompidou. D'autres éditions ont paru depuis24 et une forme numérique est en préparation25.

On retrouve dans ses Cahiers des passages de Tel Quel ainsi que des indications graphiques, probablement destinées à faciliter leur regroupement en un seul ouvrage ou en des ouvrages ultérieurs : Nombres plus subtils, Robinson.

Sa correspondance avec André Gide a été plusieurs fois publiée à la NRF, la dernière édition à ce jour (2013) datant de 2009. On y découvre un Gide impressionné par la puissance intellectuelle de Valéry, quelques aspects humains peu connus concernant le second (dont un flirt « poussé »)[réf. nécessaire], et surtout un témoignage sur la façon dont ces deux écrivains assistaient, inquiets, à la « montée des périls » des années 1930.
対話篇』は、ヴァレリーの散文詩の傑作のひとつである(注5)。この作品では、ヴァレリーはプラトンの『対話篇』のように、複数の人物が登場し、異論を唱 えたり答えたりする対話形式を用いている。ヴァレリーにとって、これは複雑な思想を表現するのに特に適した方法であるm5。この形式はまた、ユーモアから 詩まで、さまざまな形式を可能にし、作者の文学的才能を余すところなく発揮させる。彼は、カイエに書き留めた考えや観察のいくつかを舞台にした。

L'Âme et la danse』(1923年)、『Eupalinos』(1923年)、『L'Idee fixe22』(1924年)、『Le Dialogue de l'arbre』(1943年)、『Mon Faust』(1945年)の断片など。



彼の「Variété」シリーズ(I-V)は、彼自身は決して書かないだろうと認めている、彼からの依頼によるものである。それにもかかわらず、 『Regards sur le monde actuel』というタイトルで出版された、20世紀のさまざまな時事問題に関する一連の短いエッセイにも見られる分析の深さを物語っている。

Variété』第5巻では、記事をテーマ別に分類している。見出しは以下の通り6 :





ポール・ヴァレリーが50年近くにわたって書き残したノートが保存されている。261冊のノートに30,000ページ以上に及ぶ。1957年から61年に かけて、CNRS23によって最初のファクシミリ版が出版され、ポンピドゥー・センターの図書館で閲覧することができる。その後、他の版が出版され24、 デジタル版も準備中である25。

彼のカイエには『Tel Quel』の一節や、おそらくは『Nombres plus subtils』や『Robinson』など、ひとつの作品や後続の作品にまとめやすくするための図版が掲載されている。

アンドレ・ギドとの往復書簡はNRFから何度か出版されており、最新版(2013年)は2009年のものである。そこには、ヴァレリーの知的パワーに感銘 を受けたギドの姿や、あまり知られていないヴァレリーの人間的な側面(「大々的な」浮気を含む)[要参照]、そして何よりも、1930年代の「危険の台 頭」を二人の作家がどのように心配しながら見守っていたかが記されている。
Mettant en avant le rôle de la représentation et de l'action dans la théorie de la connaissance, Paul Valéry est classé parmi les penseurs du constructivisme au xxe siècle26. Il s'inspire des travaux théoriques et de construction de Léonard de Vinci, à propos duquel il a publié une monographie. Mais Valéry n'a pas de philosophie unifiée et achevée, selon Jean-François Dortier :

« [...] toute son œuvre est dispersée dans des notes, carnets, cahiers où il livre, formule après formule, des réflexions sur le rôle des idées, sans jamais les assembler en une théorie achevée27. »

Valéry fait une critique de l'utilisation de l'histoire pour justifier « ce que l'on veut ». Elle « contient tout et donne des exemples de tout »28.

Le rapport que Paul Valéry entretient avec la philosophie est problématique. Dans ses Cahiers il écrit : « Je lis mal et avec ennui les philosophes, qui sont trop longs et dont la langue m'est antipathique29. » En effet, s'il s'inspire librement de Descartes en ce qui concerne une certaine méthode du « penser », il est en revanche très critique sur le discours philosophique lui-même, comme l'explique Jacques Bouveresse30. Ceci n'empêche pas son besoin philosophique de comprendre le monde dans sa généralité, et jusqu'au processus de la pensée lui-même, de le guider dans son travail, ce qu'il manifeste en particulier dans Eupalinos ou l'Architecte (1921)31. L'ouvrage met en scène un dialogue entre Socrate et Phèdre au royaume des ombres, et revisite les concepts platoniciens : la mimesis, le réel (ou la réalité), ou encore les effets de l'écriture, et tout au long de ses Cahiers.

Cours au Collège de France
En 2023, les éditions Gallimard publient les notes et enregistrements écrits des cours au Collège de France que Paul Valéry y a donnés à la chaire de poétique32

Le langage, la société, l'histoire, 1940-1945  / Paul Valery ; édition établie, présentée et annotée par William Marx ; avec la collaboration d'Andrei Minzetanu et Céline Surprenant, Gallimard , 2023 . - (Bibliothèque des idées, . Cours de poétique / Paul Valéry ; 1)

Le langage, la société, l'histoire, 1940-1945  / Paul Valery ; édition établie, présentée et annotée par William Marx ; avec la collaboration d'Andrei Minzetanu et Céline Surprenant, Gallimard , 2023 . - (Bibliothèque des idées, . Cours de poetique / Paul Valery ; 2)

L’Académie française lui décerne le prix Louis Barthou en 1942 pour l'ensemble de son œuvre
ポール・ヴァレリーは、知識論における表象と行為の役割を重視し、20世紀における構成主義の思想家の一人に数えられている26。彼はレオナルド・ダ・ ヴィンチの理論的かつ構築的な仕事に触発され、彼についてのモノグラフを出版した。しかし、ジャン=フランソワ・ドルティエによれば、ヴァレリーには統一 された完成された哲学はなかった:


ヴァレリーは、"欲しいものは何でも "正当化するために歴史を利用することを批判する。歴史は「あらゆるものを含み、あらゆるものの例を示している」のである28。

ポール・ヴァレリーと哲学の関係には問題がある。カイエの中で彼はこう書いている。「私は哲学者を読むのが下手で、退屈である。実際、ジャック・ブーヴレ ス30が説明するように、彼はデカルトから「思考」の方法という点では自由に影響を受けていたものの、哲学的言説そのものには強い批判的であった。このこ とは、特に『ユーパリノス、建築家』(Eupalinos ou l'Architecte、1921年)31に現れているように、世界の一般性、さらには思考のプロセスそのものを理解したいという哲学的欲求が、彼の作 品を導くことを妨げるものではなかった。この作品では、影の領域におけるソクラテスとパイドロスの対話が描かれ、ミメーシス(模倣)、リアル(現実)、書 くことの効果といったプラトン的な概念が、『カイエ』全体を通して再検討されている。


Le langage, la société, l'histoire, 1940-1945  / Paul Valery ; édition établie, présentée et annotée par William Marx ; avec la collaboration d'Andrei Minzetanu et Céline Surprenant, Gallimard , 2023 . - (Bibliothèque des idées, . Cours de poétique / Paul Valéry ; 1)

Le langage, la société, l'histoire, 1940-1945  / Paul Valery ; édition établie, présentée et annotée par William Marx ; avec la collaboration d'Andrei Minzetanu et Céline Surprenant, Gallimard , 2023 . - (Bibliothèque des idées, . Cours de poetique / Paul Valery ; 2)


リ ンク

文 献

そ の他の情報

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Mitzub'ixi Quq Chi'j