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美とは感覚に快楽をもたらす対象である

Anatomy of esthetics experience, introduction to Kant's .

池田光穂

美は、なぜ心 地よいのか、言い換えると「美は感覚に快楽をもたらす対象か?」ということを、カントの『判 断力批判』の第一部を手がかりにして考える。

カント『判断力批判』は、★バウムガル デンの美学概念 批判の書物である。カントはいう「美しいものの学問は存在しない、美しいものについてはただ批判が存在するのみである」(§44, V.304)。

★バウムガルデンの立場:ヴォルフ学派 の立場から「美を、感性的認識(=下位の認識)の完全性」とみなし た。

★カントの立場:美は主観的な快の感情から出発する。

★英国のシャフツベリやハチソンは、美 の判定能力を道徳感覚とならぶ内的感覚とみなした。←→★カントは普遍妥当な原理す なわち合目的性の原理で根拠づけようとする。

★★カントは、美は(A)主観的なもの でありながら(B)普遍妥当性(=客観)を要求する。これは相互に相矛盾する逆説的な関係である。

「判断」の4つの契機:質、量、関係、 様相から自由になることを要求する。

1)あらゆる関心から離れた満足の対象 は「美しい」——我々は利害を超えたところで「美しい」と感じる(→美しさの「自然化」)

2)概念から自由になり普遍的に気に入 るものは「美しい」

3)人は目的(=なにかを成し遂げる) の表象を離れた、ある対象の合目的性である(→美しいと感じるのは、それ以外の目的ではなく、美しいと感じるという目的の結果である。美しさの同語反復)

4)概念を離れた必然的な満足の対象は 美しい——あれこれ考えることなく「美しい」という感情は直接「美しい」と感じる。

★以上のことを総合すると、(A)「美 しいものにおける満足」は、(B)快適なもの(=感覚)だけでも、(C)よいもの(=知的判断)とも区別される。カントは、(A)「美しいものにおける満 足」は「構想力と悟性の自由な行き来=遊動の状態」だと主張する。これにより、「美 的判断の普遍的妥当性」が根拠づけられる。

●自由美・自然美〈対〉付属美・芸術美

花やアラベスク模様→それ自体で美しい 「自由美」「自然美」=美的判断においては重要性

人間や建築の美→「付属美」「芸術美」 =美的判断においては副次的

●美〈対〉崇高

限定的な美の範囲をもつもの=「美」

無定形なもの、巨大なもの=「崇高」

★「美的判断」は、自由で自律的な「道 徳的判断」とちかいので、美的判断は「道徳の象徴」でもある。

【関連ページ】カントの判断力批判ノート︎▶︎美とは感覚に快楽をもたら す対象(このページ)▶カント『判断力批判』を政治的判断力として読むアーレント︎︎▶︎アーレント の『カントの政治哲学講義』ノート︎︎▶カント倫理学の誤読︎▶︎︎〈いわゆる芸術作品〉とは▶︎▶︎︎▶︎▶︎

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さて、インターネットで簡単にカント『判断力批判』 (1790)が手に入らないので、原点読めというのも若者に対して無粋な要求である。そこで私は、大胆にもウィキペディアの「」(の記述を以下に引用して、その理解を試みる。IKant_Immanuel_Critique_of_Judgment.pdf with password

ウィキペディアの記述:「」は、美的判断力の批判(第一部)と目的論的判断力(第 二部)に分かれる。また第三批判といわれるが、それが契機になり、純粋理性批判の序文を書き直すなどの影響を与えた→「当初は「趣味判断の批判」として構 想されたが、のちにカントは、美的判断である趣味判断と目的論的判断が、根底において同一の原理を持ち、統制的判断力というひとつの能力の展開として説明 されうるという構想をうるに至った。これは第一批判『純粋理性批判』から『プロレゴーメナ』を経て第二批判『実践理性批判』へといたるカントの思索の展 開、とりわけ理性についての把握と構想力概念の展開を反映している。このため最初は構想になかった目的論的判断力の批判が書かれ、第1版は1790年、出 版者ド・ラ・ガルドによってベルリンで刊行された。のちにカントは、自らの批判哲学体系の解説でもある第1版の序論を全面的に書き直した。以後の版には第 2版以降の序論がつねにつけられ、第1版序文は特に『判断力批判第1序論』(たんに『第1序論』とも)と呼ぶ」 1. Aesthetic Judgement
2. teleological judgement.
It is then one thing to say, “the production of certain things of nature or that of collective nature is only possible through a cause which determines itself to action according to design”; and quite another to say, “I can according to the peculiar constitution of my cognitive faculties judge concerning the possibility of these things and their production, in no other fashion than by conceiving for this a cause working according to design, i.e. a Being which is productive in a way analogous to the causality of an intelligence.” In the former case I wish to establish something concerning the Object, and am bound to establish the objective reality of an assumed concept; in the latter, Reason only determines the use of my cognitive faculties, conformably to their peculiarities and to the essential conditions of their range and their limits. Thus the former principle is an objective proposition for the determinant Judgment, the latter merely a subjective proposition for the reflective Judgment, i.e. a maxim which Reason prescribes to it.[Kant, Critique of Judgment, section 75.]


本書の主要概念である「趣味判断」 (または「美的判断」)とは、人間が物事の美醜を判断する際、その判断の基準は個人の趣味(ドイツ語: Geschmack ; 英語: taste)であるということを意味する。例えば「このバラは美しい」と判断する場合には、個人の感性、表象から行われたと解釈される。ここで行われる判 断とは、対象の性質を認識する事によって行われる判断ではないという考え方である。そしてこの趣味判断で美醜を判断する際には、快苦を基準として判断され るという事であり、ある物を美しいものと知覚したならばそれは自身にとって快楽をもたらす事となるものであり趣味であるという立場となる。逆に醜いと知覚 したものならば、それは自身に苦痛をもたらす事となるものになるというわけである。ここでの知覚は人間にとって最も単純な事柄でもあるというわけであり、 趣味判断というのはこのような単純な形で行われていると位置付けられる。




純粋な趣味判断は、感覚様式における純粋 な形式を把握する。善とは異なり、美は概念および関心をもたない愉悦の対象である。美の判断においては想像力と悟性とは一致する。これに対し崇高において は想像力と理性との間には矛盾がある。崇高美は、それとの比較において一切が小さいところのものであり、感性の一切の基準を超える純粋理性そのものにおけ る愉悦である




天賦の才能である天才は、芸術に対して規 則を与える。天才の作品は範型的であり流派をもつ。美的芸術は、言語的・造形的・感覚遊戯的に区分される。最高のものは詩芸術であり、悟性を実現するもの としての想像力の自由な遊戯である。




美的技術である趣味判断は、芸術にとって 欠くことができない条件として最も重要であり、ゆえに、いかなる天才といえども趣味判断を服属させることはできない。もしも趣味判断と天才の2つの特性が 対立する場合に、どちらかが犠牲にならざるを得ないのならば、その犠牲はむしろ天才の側において生じざるを得ない。恣意的な概念作用よりも、芸術の内実的 な美的技術すなわち趣味が決定的に優先されるのである。




自然目的の概念は、構成に適した物質を適 所に組み入れる。有機物においては何ものも無駄でない。また例えば一本の木は種族あるいは個体として自己を生産する。自然の所産においての目的の原理は、 自然の特殊な法則を探究するための発見的原理である。全自然の理念は、原因はつねに目的論的に判断されねばならないという課題を課すものである。




美はいわば道徳的なるものの象徴である。 道徳的本質としての人間の現存は、みずからに最高の目的そのものをもつ。神の概念を見出したのは理性の道徳的原理であり、神の現存の内的な道徳的目的規定 は、最高原因性を思惟すべきことを指示して自然認識を補足するものである。




小田部胤久(おたべ・たねひさ)巻末「用語解説」 『美学』2020年より

感官
Sinn
sense
感覚能力(→構想力)
感性化
Darstellung
presentation

形式



質量


構想力

imagination
世界は、けっしてバラバラの感覚与件と して与えられるのではなく、一定のゲシュタルトのもとに分節化して現れる。このような感覚ゲシュタルトを形成する能力のこと。
悟性

understanding

理性

reason

総括

comprehension

内官

inner  sense

判断力

power of judgement
特殊なものを普遍的なものに置き換える 能力。
美的

aesthetic

美的判断

aesthetic judgenment
「判断の規定根拠が概念ではなく、快不 快の感情であるとき、その判断は美的判断と呼ばれる」(解説27)
表象



遊動

free palay

「趣味判断は認識判断ではない。それゆえに、論理的 ではなく美的(=感情的)である」——美的判断の一般的性質、第1節

「可知的なもの(νοητα、noēta)、すなわ ち上位能力によって認識されるものは論理学の対象であり、可感的なもの(αισθητα、aisthēta)は感性の学(aesthetica)としての 美学の対象である」——「詩に関する若干の事柄についての哲学 的省察」

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美学的判断力の批判







美学的判断力の分析論








美の分析論







趣味判断の第一様式 - 「性質」






趣味判断の第二様式 - 「分量」






趣味判断の第三様式 - 目的の「関係」






趣味判断の第四様式 - 対象の「様態」





崇高の分析論







数学的崇高について






力学的崇高について




美的判断論の弁証論





目的論的判断力の批判







目的論的判断力の分析論






目的論的判断力の弁証論





●熊野純彦先生に助けを求めて!!!

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まえがき

第1章 美とは目的なき合目的性である――自然は惜 しみなく美を与える

第2章 美しいものは倫理の象徴である――美への賛 嘆は宗教性をふくんでいる

第3章 哲学の領域とその区分について――自然と自 由あるいは道徳法則

第4章 反省的判断力と第三批判の課題――美と自然 と目的とをつなぐもの

第5章 崇高とは無限のあらわれである――隠れた神 は自然のなかで顕現する

第6章 演繹の問題と経験を超えるもの――趣味判断 の演繹と趣味のアンチノミー

第7章 芸術とは「天才」の技術である――芸術と自 然をつなぐものはなにか

第8章 音楽とは一箇の「災厄」である――芸術の区 分と、第三批判の人間学的側面

第9章 「自然の目的」と「自然目的」――自然の外 的合目的性と内的合目的性

第10章 目的論的判断力のアンチノミー――反省的 判断力の機能と限界について

第11章 「究極的目的」と倫理的世界像――世界は なぜこのように存在するのか

第12章 美と目的と、倫理とのはざまで――自然神 学の断念と反復をめぐって

あとがきにかえて――文献案内をかねつつ

●付録:「純粋理性のアンチノミー (antinomy of pure reason)」

人間の有限理性は、時空間のはじまりや限界があるの か、それとも無限なのかという、具体的な感性を越えようとすると、かならず自己矛盾に陥る。

「1 世界は有限(時間的、空間的に)である/世界は無限である。
2 世界におけるどんな実体も単純な部分(それ以上分割できないもの)から出来ている/世界に単純なものなど存在しない(物質は無限分割可能である)
3 世界には自由な原因が存在する/世界には自由は存在せず、世界における一切は自然法則に従って生起する。
4 世界の内か外に必然的な存在者(世界の起動者=神)がその原因として存在する/世界の内にも外にも必然的な存在者など存在しない」

The agreeable is that which pleases the senses in sensation. Now here there is an immediate opportunity to reprove and draw attention to a quite common confusion of the double meaning that the word "sensation" can have. All satisfaction (it is said or thought) is itself sensation (of a pleasure). Hence everything that pleases, just because it pleases, is agreeable (and, according to its different degrees or relations to other agreeable sensations, graceful, lovely, enchanting, enjoyable, etc.). But if this is conceded, then impressions of the senses, which determine inclination, or principles of reason, which determine the will, or merely reflected forms of intuition, which determine the power of judgment, are all entirely the same as far as the effect on the feeling of pleasure is concerned. For this would be the agreeableness in the sensation of one's state, and, since in the end all the effort of our faculties is directed to what is practical and must be united in it as their goal, one could not expect of them any other assessment of things and their value than that which consists in the gratification that they promise. In the end, how they achieve this does not matter at all, and since the choice of means alone can make a difference here, people could certainly blame one another for foolishness and incomprehension, but never for baseness and malice: for all of them, each seeing things his own way, would be after one goal, which for everyone is gratification.

心地よいとは、感覚を喜ばせるものである。ここで、 「感覚」という言葉が持つ二重の意味について、よくある混乱を叱責し、注意を喚起する機会がある。すべての満足は(快楽の)感覚そのものである。したがっ て、喜ばせるものはすべて、ただ喜ばせるがゆえに、喜ばせるものである(そして、その程度や他の喜ばせる感覚との関係の違いによって、優美、愛らしい、魅 惑的、楽しいなど)。しかし、もしこのことが認められるなら、傾倒を決定する感覚の印象も、意志を決定する理性の原理も、判断力を決定する直観の単なる反 射形態も、快の感覚に及ぼす影響に関する限り、すべてまったく同じである。なぜなら、これは自分の状態の感覚における心地よさであり、結局のところ、われ われの諸能力の努力はすべて実用的なものに向けられ、その目標としては実用的なものに統一されなければならないのだから、物事とその価値について、それら が約束する満足感からなる評価以外を期待することはできないからである。結局のところ、これをどのように達成するかはまったく問題ではなく、手段の選択だ けがここで違いを生み出しうるのだから、人々は愚かさや無理解のために互いを非難することは確かにできても、卑しさや悪意のために非難することは決してで きない。『判断力批判』第一部第3節冒頭

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