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はじめによんでください

しんや君との対話

con Don Shinya TATEIWA,

市智河團十郎

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しんや君 立岩真也『良い死』筑摩書房 , pp.84-86,2008年 だんじゅうろう君
 私たちは、その人自身の決定を大切にするのが よいと思う。それはなぜか。一つのところから発していて、分ければ2つがある。 自己決定の問題をこれから論じるわけだ。まずは、お手並み拝見。


まず基本にあるのは、 一人ひとりの生存・生活が大切にされてよいということである。私たちは、ある人が生き ているとか暮らしているといったことを事実として知っている。別の人が生きていること、暮らしていることから、 その人が暮らしていることを区別することができている。ここで、その人のことを尊重 するとは、その人の暮らし、暮らしの仕方を尊重するということである。(このように言うことにおいて、既に死の決 定の権利・自由を排除しているのではないかと思われるかもしれないが、そうはならない。死を決めること行なうこともま たその人の生き方なのだと考えることは——そう言うのがよいのか、考え尽くせてはいないのだが——可能である。) 一人ひとりの生存・生活が大切にされてよい、つまり、個人の権利であり、また社会は個人の生 存・生活を大切しなければならない義務命題である。君は、自他を区別することができから大切だと言うが、その説明のやりかたは不十分だ。自分が他者とどの ような関係をとり結ぶのかについて明確に述べていないからだ。(死の自己決定権、自死することの自由はないと君は言う。その論拠は死は生きることの延長に あると君はいうが、これは説明不足で、この時点で生死の二分法から言って矛盾している。君は、死の自己決定権、自死の権利について、それを最初から禁止することにおいて頑迷だ。)


これ以外の理由によって自らが決めることが正当化される可能性は二つで ある。一つ、他の人たちの利益になる からという理由で、本人が決めることが正当とされる可能性もある。けれども、この理由が第一にされるべきだと は考えられない。もう一つは、決めることそれ自体に価値があるという理解である。だが、これは、なぜ決めるこ とが大切であるのかという問いに答えてくれず、そしてその答をこちらでも用意することができないから、やはり 採用できず、除外することになる。とするとやはり、自分で決めることが大切なのは、その人が大切にされてよい からである。ここから二つのことが考えられる。
前 段の理由とは「自己決定権とは他人の生活を尊重することである」ことだな。それ以外の自己決定権を正当化する理由を君は探究している。まず第一は、他者へ の利益を理由に自己決定権を正当化できる可能性を否定する。これは自己と他者の相互承認が自己決定権を共通の価値観のトークンとしてそれぞれ自らのものと する僕らの社会の通念に反しはしないかね?その理由を「なぜ決めるこ とが大切であるのかという問いに答えてくれず、そしてその答をこちらでも用意することができない」と君が言うのも支離滅裂だ。相互承認は対話をもとに合意 と納得を形成することだろう?君のいう「自分で決めることが大切なのは、その人が大切にされてよい からである」という表現は、いわゆる自己決定権を生命の尊厳派よろしく、自己決定権そのものを尊厳するという一方的な決めつけにすぎないのではないかい?


一つは、自分で決める方が自分にとっての益が大きいこと。その人自身が その人自身の利益を知っているから、 その人が自分のことを決めた方がよい。このような主張が素朴にすぎることはよく指摘される。つまり、それほど 人は自分のことがわかっていない、とくに将来を見通したりすることができないと言われる。それはその通りだ。 だがそれでも、いつものことではないとしても、多くの場合、自分にとってよいことを知っているのは自分である。 自分で食べてみておいしいものが自分にとっておいしいものであるというように、自分にとってよいものは自分の 判断においてよいものでしかありえない場合もある。また、そうした判断を他人(たち)に委ねてしまうと、多く、 その他人(たち)の都合が入ってきてしまう。結果としてその人は不利益をこうむることがある。そんなことが実 際によくある。だからこそ自分の暮らしのことを自分で決めたいという主張がなされてきた。
君 は、自己決定権は自分の利益になるからだという説明を素朴すぎると自覚しているみたいだね。人は自分のことを案外知らないものだという反批判の可能性も匂 わせている。にも関わらず「多くの場合、自分にとってよいことを知っているのは自分である」。だから他人にその判断はできないという。他人からの介入が自 らの自己決定権への脅威や不利益になる。そりゃそうだ。だから君は「自分の暮らしのことを自分で決めたいという主張」は大切だと匂わす。だが、これは「自 分の暮らしのことを自分で決めたいという主張」こそが自己決定権の平易な説明概念であるから、君の説明は、自己決定権の擁護にも批判にもなっていない。同 語反復でないのかね?


もう一つは、その人の決定を認めることがその人を認めることの一部であ るということ。その人のあり様を決め ること自体がその人のあり方の一部であり、だから、それは尊重されなければならない。これは、自分にとってよ い生活を得る手段として自分が決めることがよいという理由から区別することができる。
自 己決定権を正当化するもうひとつの事項に君は入るようだ。君は、自己を「決定すること」が、自己の一部に属すると主張する。これはよしであり、それは尊重 されなければならないね。だが、これは無限後退の論理(あるいは論理階梯の中での同語反復)で、さまざまな自己の一部を、今後枚挙的にあげていく必要があ るし、また、一部であろうと全部であろうと、自己と他者からなる「その人」を認めることにほからないことだからだ。自己決定権の全体の正当性を論じるのに 「自分にとってよ い生活を得る手段として自分が決めることがよい」という自己決定権の部分ないしはその具体的な諸相を指摘することが、ここで、どんな議論への貢献になって いるのだろうか?


この二つの他にありえるだろうか。一番目のものは、あることがその結果 によって正当化されるとするものであ る。結果の得失を理由とする正当化の場合には、その結果が、本人にとってよい——ここにはいわゆる利他的な行 為が自分にとって価値あることであるために選択されるといった場合も含まれるという以外には、その結果が 他の人たちにとって有益であるという場合があるだけである。まず一つ、実際に他人にとって有益な場合は多くな いだろう。むしろ他人の都合のよいようにされないためになされたのが、自己決定の主張でもあった。(例外的に、 安楽死・尊厳死の場合にはそうとは言えないこと、だからこそ自己決定を強く主張する人たちが安楽死・導厳死を肯定してこ なかったことは[1998a]で述べたし、また後でも述べる)。もう一つ、他人たちにとっての益を正当化の理由とする とはできないだろう。そうされてしまえば、自己決定という主張自体が意味を失うか、あるいはまったく違うもの とされることになるだろう。そうすると、その人にとってよい結果が得られるだろうから、という理由が残る。
この2つとは、まず(1)自己決定が当人に益をもたらすこと、である。君はここで自己決定に異論をもたらす「利他的」の論法にあらかじめ警戒しているね。利他的が成功するには自己的にも益がないとならない。つまり利他的の倫理は、自他的と共存されるべきだという。この「利他性」の議論を、さらに2つの領域で君は深めようとする。(1a)利他性そのものがレアであること。だから利他性はしばしば濫用される。(その領域は「 安楽死・尊厳死の場合」は濫用の可能性があることを別の文献で議論したし、今後も君の焦点になることを述べている)。これは論理的な論破というよりも歴史から我々が得る重要な教訓だ。(1b)「他人たちにとっての益」は、自己決定とは共存しないということだ。どうも君は「他 人たちにとっての益」を先の利他性あるいは利他的な行為にまつわる自己への益と区別している。だから君は、利他性を正当化する論理は、自己を犠牲にするこ とを含まない、あるいは含まれてはいけないというのだ。人間における利他的行為は、今の言葉だと、自己と他者のウィン=ウィンでなきゃならないというの だ。これも僕は首肯する。


次に、手段としての有用性・有効性の他には、あと一つ、選び決めること に存する内在的な価値があるだけであ る。これにも二つあって、その一つが、それ自体を至上のものとする価値づけである。しかし、自分で決められる ことはよいことであり、大切なものではあっても、至上のものだという理由は見出せない。その人の存在全体を価値 づけるほど価値があるとは考えられない。自己意識・自已制御能力が至上のものであり、人が人であるための資 格であるという堅固な信心を持つ人たちはいて、その人たちは譲らないかもしれない。しかしその人たちはそうし た信仰を持たねばならないわけを言うことができない。すると、決めることの価値は人の価値の一部である、そ て、ここでの人が、決める当人以外の人であると考えられない。(もちろん、ある人の決定を他の誰かが尊重すること は、その他の誰か自身の価値でもあるだろう。ただそれは、本人の決定が本人の価値の一部である、その上でのことであ る。)とすれば、決めることの内在的な価値はその人自身の価値の中に含まれるものとしてある。
そして(2)自己決定における自己が「選び決めること に存する内在的な価値」についてである。だがこれは先に予告されている「その人の決定を認めることがその人を認めることの一部であ る」という言葉と少しニュアンスが異なる。ただし、自己承認は内在的価値に他ならないと君が考えているのならそれは同値だ。この議論を君は敷衍する。まず(2a)自己決定を「それ自体を至上のものとする」ことはできないという命題だ。君はこのような自己決定至上主義を戒める——そこに君は尊厳死派の人たちの言説実践に釘を刺している。君はそれを「信仰」だと批判する。もちろん、批判の矛先は、尊厳死派の連中である。ただしここでは、自己決定をする主体を「自己意識・自已制御能力」をもつ者という前提を批判する論法になっているので、君の目論見は、そのような自己意識や自己能力至上主義を標的にしているのだろう。だが、実際は「自己意識・自已制御能力」を外部から測定したり、法的権限によってパターナリズム原則で制限をかけるというのが現状というわけだ。これは、パターナリズムという牢獄から自由になる切符は「自己意識・自已制御能力」至上主義にしか求められないが、それは外部から与えられる尺度で決められるのではなく、まさに、そのことすら自己決定されるべきだと正統派の自己決定派は主張するのだ。だからこの議論は、アイデンティティ・ポリティクスの圏内にあり、君も「決めることの内在的な価値はその人自身の価値の中に含まれるものとしてある」と正しく指摘することができる。


だから、以上で網羅されていると考える。自分で決めることは、自分に とって役に立つから尊重すべきである。 また自分で決めることは、自らの存在が尊重されることの一部をなす。以上は妥当な、また穏当な理解であり主張 であり、これを前提にして議論してよいはずである。仮に私たちの立場に立たなくとも、こちらの立場ははっきり しているから、それとどのように異なるかもはっきりするから、論点・争点ははっきりする。
網羅されているかどうかわからないが、君の主張は次のように修正できよう;「自分で自分のことを決めるプロセスとその尊厳は、自分および他者に とって役に立つか否かという観点からではなく(これは宗教的教義にも似た)普遍的な人権・人道概念そのものである」と。

これは啓蒙主義思想が到達した黄金律だろう。だからこの黄金律を(君の敵の論理にも含まれるが)「信仰」とバカにしてはならない。たしかにこの自己決定に到達するプロセスを自覚せずして「信じる者」は救われない。だが、むしろ、(自己決定に到達するプロセスを自覚して君じしんが)信じる/信じたことが世界を救う/救ってきたことがわかるはずだろう。まさに、これこそ君がこの現世にいて、僕たちに与えてくれた勇気なのだ。
【全文の再掲】
私たちは、その人自身の決定を大切にするのがよいと思う。それはなぜか。一つのところから発していて、分ければ2つがある。︎▶︎▶︎ まず基本にあるのは、 一人ひとりの生存•生活が大切にされてよいということである。私たちは、ある人が生き ているとか暮らしているといったことを事実として知っている。別の人が生きていること、暮らしていることから、 その人が暮らしていることを区別することができている。ここで、その人のことを尊重 するとは、その人の暮らし、暮らしの仕方を尊重するということである。(このように言うことにおいて、既に死の決 定の権利・自由を排除しているのではないかと思われるかもしれないが、そうはならない。死を決めること行なうこともま たその人の生き方なのだと考えることは——そう言うのがよいのか、考え尽くせてはいないのだが可能である。)▶︎▶︎ これ以外の理由によって自らが決めることが正当化される可能性は二つである。一つ、他の人たちの利益になる からという理由で、本人が決めることが正当とされる可能性もある。けれども、この理由が第一にされるべきだと は考えられない。もう一つは、決めることそれ自体に価値があるという理解である。だが、これは、なぜ決めるこ とが大切であるのかという問いに答えてくれず、そしてその答をこちらでも用意することができないから、やはり 採用できず、除外することになる。とするとやはり、自分で決めることが大切なのは、その人が大切にされてよい からである。ここから二つのことが考えられる。▶︎▶︎ 一つは、自分で決める方か自分にとっての益が大きいこと。その人自身がその人自身の利益を知っているから、 その人が自分のことを決めた方がよい。このような主張が素朴にすぎることはよく指摘される。つまり、それほど 人は自分のことがわかっていない、とくに将来を見通したりすることができないと言われる。それはその通りだ。 だがそれでも、いつものことではないとしても、多くの場合、自分にとってよいことを知っているのは自分である。 自分で食べてみておいしいものが自分にとっておいしいものであるというように、自分にとってよいものは自分の 判断においてよいものでしかありえない場合もある。また、そうした判断を他人(たち)に委ねてしまうと、多く、 その他人(たち)の都合が入ってきてしまう。結果としてその人は不利益をこうむることがある。そんなことが実 際によくある。だからこそ自分の暮らしのことを自分で決めたいという主張がなされてきた。▶︎▶︎ もう一つは、その人の決定を認めることがその人を認めることの一部であるということ。その人のあり様を決め ること自体がその人のあり方の一部であり、だから、それは尊重されなければならない。これは、自分にとってよ い生活を得る手段として自分が決めることがよいという理由から区別することができる。▶︎▶︎ この二つの他にありえるだろうか。一番目のものは、あることがその結果によって正当化されるとするものであ る。結果の得失を理由とする正当化の場合には、その結果が、本人にとってよい——ここにはいわゆる利他的な行 為が自分にとって価値あることであるために選択されるといった場合も含まれるという以外には、その結果が 他の人たちにとって有益であるという場合があるだけである。まず一つ、実際に他人にとって有益な場合は多くな いだろう。むしろ他人の都合のよいようにされないためになされたのが、自己決定の主張でもあった。(例外的に、 安楽死・尊厳死の場合にはそうとは言えないこと、だからこそ自己決定を強く主張する人たちが安楽死・導厳死を肯定してこ なかったことは[1998a]で述べたし、また後でも述べる)。もう一つ、他人たちにとっての益を正当化の理由とする とはできないだろう。そうされてしまえば、自己決定という主張自体が意味を失うか、あるいはまったく違うもの とされることになるだろう。そうすると、その人にとってよい結果が得られるだろうから、という理由が残る。▶︎▶︎ 次に、手段としての有用性・有効性の他には、あと一つ、選び決めることに存する内在的な価値があるだけであ る。これにも二つあって、その一つが、それ自体を至上のものとする価値づけである。しかし、自分で決められる ことはよいことであり、大切なものではあっても、至上のものだという理由は見出せない。その人の存在全体を価値 づけるほど価値があるとは考えられない。自己意識・自已制御能力が至上のものであり、人が人であるための資 格であるという堅固な信心を持つ人たちはいて、その人たちは譲らないかもしれない。しかしその人たちはそうし た信仰を持たねばならないわけを言うことができない。すると、決めることの価値は人の価値の一部である、そ て、ここでの人が、決める当人以外の人であると考えられない。(もちろん、ある人の決定を他の誰かが尊重すること は、その他の誰か自身の価値でもあるだろう。ただそれは、本人の決定が本人の価値の一部である、その上でのことであ る。)とすれば、決めることの内在的な価値はその人自身の価値の中に含まれるものとしてある。▶︎▶︎ だから、以上で網羅されていると考える。自分で決めることは、自分にとって役に立つから尊重すべきである。 また自分で決めることは、自らの存在が尊重されることの一部をなす。以上は妥当な、また穏当な理解であり主張 であり、これを前提にして議論してよいはずである。仮に私たちの立場に立たなくとも、こちらの立場ははっきり しているから、それとどのように異なるかもはっきりするから、論点・争点ははっきりする。▶︎▶︎





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