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民族研究所と総力戦

The National Institute of Ethos, or The National Institute of Ethnology

池田光穂

民族研究所(みんぞくけんきゅうじょ)は、1943年(昭和18年)に設置された日本の官立研究所。以下の情報はウィキペディアならびに中生(2016)による(→組織人事や岡正雄の関わりなどは「民族研究所」に詳しい)。

第二次世界大戦以前の日本の民族学者(文化人類学者・社会人類学者)たちは、1934年、渋沢敬三らを中心に発足した日本民族学会(現在の日本文化人類学会)を中心に活動していたが、帝国大学・旧制大学を頂点とする官学の中では人類学の研究が未発達であったため、研究が正当に評価されてはいなかった。そこで当時の学界で指導的地位にあった岡正雄らは、太平洋戦争の中での占領地拡大(「大東亜共栄圏」建設)にともなう民族政策樹立の必要という時局を利用し、人類学者の研究機関を設立しようと政府当局に働きかけた[1:。 これにより、1942年中に「民族研究所」の設立が決定され、1943年1月18日に勅令第20号「民族研究所官制」により文部省管轄の研究機関として設 立、所長には民族社会学の権威として知られていた京都帝国大学教授・高田保馬が就任した。この研究所は「民族政策ニ寄与スル為諸民族ニ関スル研究ヲ行フ」 (「官制」第一条)ことを目的とし、日本最初の官立人類学研究機関であったことから、先述の岡正雄を筆頭に当時の代表的民族学者が参加し、主として大東亜 共栄圏の啓蒙活動など国策への協力と並行して、質の高い実証研究が行われた。民族研究所の設立以前から活動してきた日本民族学会は、民族研究所の設立決定 によりその外郭団体に再編され、1942年8月21日財団法人「日本民族学協会」(会長は新村出)と改称して民族研究所の支援にあたるとともに、附属民族 学博物館(かつての日本民族学会附属博物館)の運営などを行った。1943年11月から44年4月にかけて、民族研究所が主催した都合6回連続講義のべ 42演者におよぶ「民族研究講座」の記録があり、後年翻刻された(→「書評『国際常民文化研 究叢書11:「民族研究講座」講義録』」)。1945年8月の日本の敗戦にともない同年10月民族研究所は廃止されたが、日本民族学 協会は活動を続け、1964年4月には学術団体としての日本民族学会が復活した(→「日本文化人類学史」)。

1944年末「民族研究所の処理の問題を めぐって、岡(正雄)と古野(清人)は極度に反目し『相手を見るだけで生理的嫌悪を覚える』ほどになる (西村 1988:165)」(中生 2016:365)

企画院〈対〉文部省の確執

古野清人「白鳥庫吉先生の追憶」*1に よると、『わたしが学士院を 辞して、に入ったころ、ウィーンから岡正雄君が帰ってき て、民族調査の国家機関を樹立することを提唱した。それに共鳴した若干の同志はよく会合しては、実現への工作を続けた。すでに東亜研究所が活動を開始して いたので、政府は意欲的でなかった。近衛首相に働きかける方法もなかったので、先生に首相宛に一筆書いて頂こうということになり、岡君と一緒に目黒のお宅 にお伺いして、お願いした』。しかし、古野らの依頼に対して、白鳥は結局断ってい」た、と。「東亜研究所は、近衛文麿総裁、大蔵公望副総裁で発足した機関。大 蔵が、後発の民族研究所との関係について、日記に記録していた:『昭和17 (1942)年5月 25日 九時三〇分、企カク院に秋永第一部長を訪ねしも不在。よって石田 調査課長を訪ねて、左の事を秋月[永]氏へ伝言頼む。  一、来月より約一ヶ月半にて満支に旅行すること。  (略)  三、今度文部省で新設の民族研究所と東研との間に摩擦の出来ぬよう、企カク院にて仕事の配分を考へること。』(そして)この段階では、根 回しがすんだのか、大蔵は協力的な態度を取っている。 その後、民族研究所は、昭和18年1月に発足することになるが、岡は総務部長を務める。その岡の名前が、大蔵の日記に登場する;『昭和19年5月15日  一一時、民族研究所の総務部長岡□[欠]雄氏来訪、余に此研究所の参与となって呉れとの話だが謝絶する。』大蔵はこの月末に東亜研究所の副総裁をやめてい るので、それを見込んでの依頼と思われるが、こういうのは「ご法度」だろう」とブログの作者は記す()。

※省庁の確執は今に始まったことではない ので、このブログ子のいうとおりだろうと思われる。

◎企画院の全貌

企画院(きかくいん、英語: The [Cabinet] Planning Board[1])は、日本における戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関である。

企画院の前身の1つは内閣調査局である。内閣調査局は、1935年(昭和10年)5月10日に設置された内閣総理大臣直属[注 1]の国策調査機関である。各省の革新官僚や陸軍の鈴木貞一、海軍の阿部嘉輔が参加、電力国家管理案の具体化、産業合理化政策の各方面に渡る業務を担当し た [2]。

「重要産業統制法」(1931年(昭和6年)7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚 (新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まっていった。林内閣時代になると内閣調査局は、より強力な重要政策を立案する組織として、1937年(昭和 12年)5月14日に企画庁に再編強化された(勅令第一九二号)[3]。更に、支那事変勃発後の同年10月25日に内閣資源局と統合し企画院が発足した [3]。ここに誕生した企画院は、国家総動員機関と総合国策企画官庁としての機能を併せ持った強大な機関だった[3]。企画院は、重要政策の企画立案と物 資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下の統制経済諸策を一本化・各省庁に実施させる機関となり、国家総動員法(1938年(昭和13年)5月5日施行) 制定以来その無謬性を強めていくこととなる。

特に素人の軍部よりも予算や法に通じ・駆使する専門家たる官僚の力が強まり、実際の主導権は官僚側にあったとされる。岸信介と、財界・財閥を代表する小林 一三との対立は、小林により岸が商工次官を更迭され、1941年(昭和16年)の企画院事件として和田博雄(農林省出身)らが共産主義者として検挙される 事件にまでつながる[注 2]。1943年(昭和18年)の「軍需会社法」により企業の利益追求が事実上否定され、1940年(昭和15年)12月に閣議決定された「経済新体制確 立要綱」中の「資本と経営の分離(所有と経営の分離)を推し進め、企業目的を利潤から生産目的に転換すべき」とする政策の中心にいた商工省派遣・美濃部洋 次、陸軍派遣・秋永月三(のち中将)らの念願は達成されたと、評論家・谷沢永一は書いている[4] 。

単なる法律立案運用解釈のコンサヴァティブ・エンジニアではなくクリエーティブ・エンジニアを目指していたと言われるが[5]、戦後、経済官僚は公職追放 に対してもほぼ生き残り、戦前の強力な統制から一歩引き行政指導や許認可制度、予算手当てや優遇税制(政策減税)、補助金などを主たるパワーとして、大蔵 省や通産省または経済企画庁[注 3]を主たる拠点として戦後の国家を担うプロデューサー・エージェントとして稼動した[注 4]。

陸軍・大蔵・商工各省の影響下にあり、各省は優秀な者らを送り、彼らは所謂「革新官僚」として、日中戦争前後の戦時統制計画の立案を担ったが、「統制経 済」の牙城として、初期には、吉田茂、奥村喜和男、松井春生らが参画、その後は、初代総裁に後藤新平を頂いていた南満州鉄道傘下満鉄調査部を経由した官僚 として、経済将校として鳴らした石原莞爾と組んだ宮崎正義、佐々木義武、満州国の経済体制造りに関わった者の中からは、岸信介(商工省)、椎名悦三郎(商 工省)、美濃部洋次(商工省)、毛里英於菟(大蔵省)、星野直樹(大蔵省)らがいる。他に、迫水久常(大蔵省)、植村甲午郎(逓信省)、黒田鴻伍(商工 省)、橋井真(商工省)、周東英雄(農林省)、竹本孫一(内閣)らが、民間からは企画院参与(勅任官)として高橋亀吉、調査官として美濃口時次郎らがい た。更に東條英機、武藤章、鈴木貞一、板垣征四郎らの軍人の関わりも指摘されている。

1943年(昭和18年)10月31日に企画院は廃止され、翌11月1日、企画院の業務は、総合国策及び行政考査、重要予算の統制権については内閣に、国 家総動員については軍需省に、国土計画については内務省にそれぞれ移管された。内閣官房では、企画院総務室および第一部の主要事務を継承する官職として、 内閣書記官長の指揮のもと、内閣参事官(内閣参事官室)が設置された。その後、企画院の復活が検討された結果、1944年(昭和19年)11月1日、内閣 参事官を廃止して綜合計画局が設置された。長官には植場鉄三、秋永月三、関東軍参謀副長・池田純久、最後には迫水久常、元商工次官・村瀬直養らが就いた [注 5]。その後、1945年(昭和20年) 8月31日に綜合計画局は廃止され、勅令第503号「内閣調査局官制」に基づき、同年9月1日に内閣総理大臣の管理下に内閣調査局が設置された。内閣調査 局は、戦後経営に関する重要事項の調査および企画、並びに戦後経営に関する各庁事務の調整統一に関する事務を管掌し、上記業務を実施するに際し、関係各庁 に調査または審査に関し必要な資料の提出、ないしはそれに関する説明を求めることができると規定されていた。内閣調査局には、長官・調査官等が置かれてい た。

1945年(昭和20年)11月22日公布の「内閣部内臨時職員設置制中改正ノ件」に基づき、内閣官房の管理下に内閣審議室が設置されたのに伴い、同年 11月24日に内閣調査局は廃止された。内閣審議室の事務は内閣副書記官長が管轄した[6][7]。内閣審議室はその後、1952年(昭和27年)に調査 機能が独立して、内閣総理大臣官房調査室になったほか[8]、1957年(昭和32年)には内閣審議室が廃止され、内閣官房審議室と内閣総理大臣官房審議 室に分離した[8]。1986年(昭和61年)7月1日に内閣官房審議室が廃止され、内閣内政審議室と内閣外政審議室とに分離したが、2001年(平成 13年)1月6日の中央省庁再編により、内閣内政審議室と内閣外政審議室は廃止され、内閣官房副長官補および内閣官房副長官補室が設置され、政策の企画・ 立案及び総合調整を担当している。


「総力戦とは、純粋に合法的な軍事目標に限定されない戦争であり、大量 の民間人や非戦闘員の苦痛や死傷者を出す可能性がある。この場合の、総力戦(total war)は、エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorff, 1865-1937)の主著のタイトルである『総力戦(Der totale Krieg, 1934)』から生まれたことばで、一般的(ウィキペディア)には「全面戦争(total wa)とは、あらゆる民間の関連資源やインフラを正当な軍事目標とし、社会のあらゆる資源を戦争に動員し、非戦闘員のニーズよりも戦争を優先させる戦争で ある」と定義されている」と述べた。ウィキペディア(英語)の当該の項目には、8つの代表的な総力戦の特徴があげられている。戦略爆撃 (Strategic bombing)、攻城戦あるいは軍事的封鎖(siege)、焦土作戦(Scorched earth)、通商破壊(Commerce raiding)、連座(Collective punishment)、工業による戦争(Industrial warfare)、市民と戦争捕虜の労働動員(use of civilians and prisoners of war as forced labor for military operations)、容赦のない攻撃(No quarter)(→「戦争」)
組織
総裁(親任官)
次長(勅任官)
総裁官房
総務室 - 基本的総合的事務
総務部 → 第一部 - 戦時的国家総動員関係一般事務
調査部 → 第二部 - 生産力拡充関係事務
内政部 → 第三部 - 人口政策及び人員動員計画事務
産業部 → 第四部 - 物資動員及び生活必需物資の需給統制事務
財務部 → 第五部 - 財務担当事務
交通部 → 第六部 - 交通動員計画事務
科学部 → 第七部 - 科学動員及び科学研究に関する事務
沿革
1937年(昭和12年)10月 - 企画院発足に伴い、総裁・次長がそれまでの政治任用による兼務からそれぞれ親任官・勅任官となる。
1939年(昭和14年)4月 - 第一次改組にて各部署は番号制に変更及び科学部設置。
1941年(昭和16年5月 - 第二次改組にて次長直轄の総裁官房総務室設置。
1942年(昭和17年)
1月 - 第七部は新制の技術院に移行。
4月 - 第三次改組にて第四部を各庁統一事務にあて、第二部に生産力拡充及び物資動員計画事務をあてた。
11月 - 第四次改正にて六部を五部制に及び減員。
1943年(昭和18年)
10月31日 - 企画院が廃止される。企画院の業務は、総合国策及び行政考査、重要予算の統制権については内閣に、国家総動員については軍需省に、国土計画については内務 省にそれぞれ移管された。企画院総務室および第一部の主要事務を継承する官職として、内閣書記官長の指揮のもと、内閣参事官(内閣参事官室)が設置され る。
1944年(昭和19年)
11月1日 - 内閣・陸軍・海軍の間で企画院復活論が台頭したことにより、内閣参事官を廃止して、綜合計画局を設置。
1945年(昭和20年)
8月31日 - 綜合計画局が廃止される。
9月1日 - 勅令第503号「内閣調査局官制」に基づき、内閣総理大臣の管理下に内閣調査局が設置される。
11月22日 - 「内閣部内臨時職員設置制中改正ノ件」が公布され、内閣官房の管理下に内閣審議室が設置される。
11月24日 - 内閣審議室が設置されたのに伴い、内閣調査局は廃止される。
1952年(昭和27年)
4月9日 - 内閣審議室から調査機能が独立して、内閣総理大臣官房調査室が設置される[8]。
1957年(昭和32年) - 内閣審議室が廃止され、内閣官房審議室と内閣総理大臣官房審議室に分離される[8]。
1986年(昭和61年)
7月1日 - 内閣官房審議室が廃止され、内閣内政審議室と内閣外政審議室に分離される。
2001年(平成13年)
1月6日 - 中央省庁再編により、内閣内政審議室と内閣外政審議室が廃止され、内閣官房副長官補(内閣官房副長官補室)が設置される。



東亜研究所(The Toha Instutute, or the National Institute of East Asia, 1938-1946)

東 亜研究所は、企画院管轄の財団法人として1938年9月1 日に設立され、総裁には近衛文麿、副総裁には(満鉄理事、貴族院議員)、常務理事に唐沢俊樹らが就任したが、事実上の所長と して運営を切り回して いたのは大蔵であった。人文・社会・自然科学の総合的視点に 立ち、東アジア全般の地 域研究に加え、ソ連・南方(東南アジア)・中近東など、当時の日本の地 域研究においてほとんど手つかずだった諸地域の研究を進め、日中戦争(支那事変)の遂行および、これらの地域に対する国策の樹立に貢献することが期待され た

1940 年(昭和15年)以降、満鉄調査部と共同で、中国社会に対する 最初の総合的現地調査である「中国農村慣行調査」(華北農村慣行調査)(中生 2016:267)を行ったことで知られている。太平洋戦争(大東亜戦争)期の南方占領地軍政において は、第16軍(ジャワ軍政監部)のもとで柘植秀臣を班長として旧蘭印(インドネシア)のジャワ占領地における調査活動を担当した。

◎「民族研究所」関係者:を含む

岡正雄 - 総務部・第二部部長を兼任
小山栄三 - 第一部・第四部部長を兼任
古野清人 - 第三部・第五部部長を兼任
八幡一郎(所員)
江上波夫(所員)
杉浦健一(所員)
牧野巽(所員)
岩村忍(所員)
佐口透(助手)
徳永康元(助手)
小野忍(嘱託)
関敬吾(嘱託)
石田英一郎(嘱託) - 西北研究所所員。
今西錦司(嘱託) - 所員。 今西錦司()
石田英一郎() 藤枝晃() 磯野誠一() 磯野富士子() 中尾佐助()
梅棹忠夫(嘱託)() 岩村忍 民族研究所所員として出向
佐口透- 民族研究所所員として出向
小野忍 - 民族研究所所員として出向

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総力戦研究所(そうりょくせんけんきゅう じょ)は、大日本帝国において1940年(昭和15年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された、内閣総理大臣直轄の研究 所である。

この機関は国家総力戦に関する基本的な調査研究と“研究生”として各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちに対し、総力戦体制に向けた教 育と訓練を目的としたものであった。1945年(昭和20年)4月1日付施行の勅令第115号により廃止。

陸軍省経理局に置かれていた「戦争経済研究班」、通称「秋丸機関」の機 能を引き継いだ機関で、本来の目的は「国防」という問題について一般文官と軍人(武官)が一緒に率直な議論を行うことによって国防の方針と経済活動の指針 を考察し、統帥の調和と国力の増強をはかることにあったとされている。総力戦研究所構想は企画院第一部長の沼田多稼蔵[1]の発案だったとされ、内閣情報 局分室跡で開所されることとなった。

1940年(昭和15年)10月1日、企画院内で総力戦研究所の開所式が執り行われた。初代所長に星野直樹、所員には渡辺渡(陸軍大佐)、松田千秋(海軍 大佐)、奥村勝毅(外務省東亜局第二課長)、大島弘夫(内務省外事課長)、前田克巳(大蔵省主計局調査課長)、寺田清二(農林省蚕糸局長)、岡松成太郎 (商工省官房統計課長)らが最初に充てられた。同年12月3日、研究所主事に岡新(海軍少将)、技本総務部長兼任所員として藤室良輔[2](陸軍少将、 1941年10月に同所主事)が加わった。

1941年4月1日に入所した第一期研究生は、官僚27名(文官22名・武官5名)と民間人8名の総勢35名。その後4月7日になって、皇族・閑院宮春仁 王(陸軍中佐。当時、陸軍大学校学生)が特別研究生として追加入所した。一期生は1942年(昭和17年)3月まで研究・研修を行い卒業となった。

1942年4月に第二期生39名を、1943年(昭和18年)には第三期生40名を受け入れている。その三期生は、同年12月15日で繰り上げ卒業。これ 以降、総力戦研究所は開店休業状態となった。

机上演習
第一期生の入所から3か月余りが経過した1941年7月12日。2代目所長飯村穣(陸軍中将)は研究生に対し、日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習 (シミュレーション)計画を発表。同日、研究生たちによる演習用の青国(日本)模擬内閣も組織された。

模擬内閣閣僚となった研究生たちは7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産 の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。その結果は、「開戦後、 緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避け られない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。これは、現実の日米戦争における戦局推移とほぼ合致するものであった(原子爆弾の 登場は想定外だった)。

この机上演習の研究結果と講評は8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において時の首相近衛文麿や陸相東條英機 以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。

研究会閉会に当たって東條は、参列者の意見として以下のように述べたという。

諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。日露戰 争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありま して、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えて いる事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経 緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。(表記は現代式に改め) ——対米英開戦3ヶ月前のことであった。

模擬内閣 閣僚名簿
(1941年7月12日組閣)

内閣総理大臣 - 窪田角一(産業組合中央金庫参事・調査課長)
内閣書記官長 - 岡部史郎(衆議院速記課長、のち国会図書館長)
法制局長官(兼) - 三淵乾太郎(東京民事地方裁判所判事)
外務大臣 - 千葉晧(外務省東亜局)
外務次官(兼) - 林馨(在上海日本大使館三等書記官)
内務大臣 - 吉岡恵一(内務省地方局)
警視総監 - 福田冽(内務省計画局)
大蔵大臣 - 今泉兼寛(大蔵省主税局)
陸軍大臣 - 白井正辰(陸軍省・陸軍大尉)
陸軍次官 - 岡村峻(陸軍省・陸軍主計少佐)
海軍大臣 - 志村正(海軍省・海軍少佐)
海軍次官 - 武市義雄(海軍省・海軍機関少佐)
司法大臣 - 三淵乾太郎
文部大臣 - 丁子尚(文部省宗教局宗教課)
文部次官 - 倉沢剛(東京女子高等師範学校教諭)
農林大臣 - 清井正(農林省官房文書課)
商工大臣 - 野見山勉[3](商工省総務局)
逓信大臣 - 森巌夫(逓信省官房総務課)
鉄道大臣 - 芥川治(鉄道省運輸局)
拓務大臣 - 石井喬(拓務省拓南局)
厚生大臣 - 三川克巳(厚生省職業局)
企画院総裁 - 玉置敬三(商工省物価局第二部化学課長、のちに通産事務次官、東京芝浦電気会長)
企画院次長または部長 - 中西久夫(東京府庁、内務官僚)、酒井俊彦(大蔵省理財局)、千葉幸雄(日本製鐵総務部福利課)、保科礼一(三菱鉱業労務部)、前田勝二(日本郵船企画課 書記)、矢野外生(農林省官房文書課)
情報局総裁 - 秋葉武雄(同盟通信社編輯局東亜部)
次長または部長 - 林馨、川口正次郎(内務省警保局)
対満事務局次長 - 宮沢次郎(満州国総務庁参事、のちトッパン・ムーア会長)
興亜院総務長官 - 成田乾一(済南特務機関、のち日放サービス社長)
朝鮮総督 - 日笠博雄(朝鮮総督府殖産局)
日本銀行総裁 - 佐々木直(日本銀行資金調整局書記、のち第22代日本銀行総裁[4])
大政翼賛会副総裁 - 原種行(東京高等学校教授、のち岡山大学教授)


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